(96) ブラジルのベニス、レシーフェ

ブラジルのベニス、水の都レシーフェ

ブラジルのベニス、水の都レシーフェ

サンパウロから2100キロ、リオ・デ・ジャネイロから1900キロ、首都ブラジリアから2000キロに位置するレシーフェは、ブラジル東北部の中心都市で、別名「ブラジルのベニス」と呼ばれている美しい街である。その名のとおり、海抜4m~(-)2mのフラットな地形の市内を、縦横に走る無数の川と運河が、ベベリーベ川とカピバリーベ川に合流し、広大な河口となって大西洋に注ぐ際に、巨大な中洲が形成され、それが街の一部となって、エキゾチックな“水の都”の景観を造りだしている。市内の水路にまたがって架けられた大小の橋は、実に49本を数え、それぞれに名前が付けられている。

レシーフェはペルナンブーコ州の州都で、都市圏の人口は370万人を数え、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロに次ぐ、ブラジル第三番目の大都会である。1958年に国策としてスタートした、ブラジル東北部振興政策によって、税の恩典に浴そうと、南部から大小の企業が続々と同地域に進出し、工場や商業施設を建設した。その中心になったのがレシーフェ市で、半世紀を経た今日、同政策は着実に成果を挙げ、商工業に目覚ましい発展を遂げており、イギリスのリサーチ会社プライスウオーターハウスは、レシーフェ市は2020年には、ミュンヘン、ナポリ、シェンヤンとアムステルダムを抜いて、世界で最もリッチな100都市の仲間入りを果たすであろうと、予測している。

レシーフェで開催される国際的な会議、見本市、イベントの数は、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロに次いで多く、ブラジルと国交のある国々は、レシーフェの重要性を認識している。例えばアメリカは、サンパウロとリオデジャネイロ以外には、唯一、レシーフェに領事館を設置している。

ボア・ヴィアージェンの浜

ボア・ヴィアージェンの浜

「レシーフェ」の名前の由来は、町が大西洋に面して十数キロに亘る海岸線を有しており、それに並行して、あたかも外海から海浜を守るように、サンゴ礁の壁が延々と続いているからで、レシーフェとは、そのサンゴ礁の意である。外海から守られた水域は、波の無い天然プールの状態になり、絶好の海水浴場となる。そんな状態が延々7キロに亘って続くボア・ビアージェン海岸は、海水浴場として最も人気のある海浜で、海に面してズラリと立ち並ぶ高層マンションは、中産階級の住居になっている。ちなみに安全な内海とは対照的に、レシーフェの外洋には危険なサメが多く生息しており、時々犠牲者が出るので、サーフィンは一切禁止されている。

年間を通じての気温は、一月が最も高く、30℃~22℃、もっとも低い7月が、27℃~20℃で、トロピカル気候の常夏の街である。特筆すべきは、この街の背後には、ブラジル大陸の特徴である、海辺からせり上がる海岸山脈が無く、フラットな地形のために、海から吹く風が、滞ることなく内陸に向かって吹き抜けてゆくので、年間を通じて、気温の割には涼しく感じられる。

オリンダの高台からレシーフェを望む

オリンダの高台からレシーフェを望む

この地域が、ポルトガルによって統治されるようになったのは、1537年で、本国から派遣されたヅアルテ・コエーリョ総督によって、現オリンダ市のある場所に拠点が設けられた。オリンダはレシーフェから6キロの場所にあり、高台から大西洋を隔ててレシーフェの街が望め、その眺めは正に絶景である。街の名前もその美しい景観に由来しており、初めて同地を訪れたコエーリョ総督が、丘からの美しい眺めに感嘆し、「オー、リンダ!(何て美しい!)」と思わず漏らしたことから名付けられたという。

その美しいオリンダの街が、心無くもオランダ人たちによって1630年に焼き払われ、占領されてしまう。オランダ人はその後24年間にわたって同地域を占拠し、「ニュー・オランダ」と名付けて植民地化した。彼らは、オリンダの街が、地理的に外敵からの攻撃にもろいと判断し、現レシーフェのある場所に、首都を移した。レシーフェでは、肌が黒くて目が青い(または緑色)人々を、街で見かけることがあるが、それはオランダ人によって占領されていた時代の名残である。

ポルトガルが同地域を奪回したのは1654年で、オランダ人を排斥し、再びオリンダの地に新たに町を建設して、統治の中心地とした。その頃に建設された教会などの建物は、国宝に指定されて今もそのまま保存され、高台から海を臨む美しい風景とともに、観光客のお目当てになっている。

首都が、オリンダから陸海空の交通アクセスに便利なレシーフェに移転したのは1837年で、以後、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロに次ぐ第三の都市、ブラジル東北部の最重要都市として、君臨している。

W杯のゲームが行われるイタイパーバ・アレナ・ペルナンブーコ球技場

W杯のゲームが行われるイタイパーバ・アレナ・ペルナンブーコ球技場

レシーフェは、2014年のサッカーW杯のゲームが行われる12都市の一つで、レシーフェ市から約20キロのサン・ローレンソ・デ・マッタ市に新たに建設された、4万6千人収容の「イタイパーバ・アレナ・ペルナンブーコ・スタジアム」で白熱のゲームが繰り広げられる。ちなみに、去る6月に開催されたコンフェデレーション・カップで、日本代表はこのスタジアムで、3-4でイタリアに惜敗している。そして、来る6月のW杯一次予選の第一戦で、日本は、コートジボワールを相手に、再びこのピッチに立つことが決定している。

レシーフェはまた、「夢の島」フェルナンド・デ・ノローニャ(参照:http://bit.ly/19wWsrm)への玄関口になっており、同島を訪れる観光客は、一旦、レシーフェのグァララぺス空港で乗り換えて、545キロ先の洋上に浮かぶ島に向かって飛ぶことになる。

実は、私はレシーフェには縁がある。ブラジルに到着してすぐに就職した貿易商社で、肉体労働に甘んじていた私は、セールスマンという、社内で最も羽振りのいい人たちに憬れ、言葉を覚えた暁には、セールスマンになってブラジル中を飛び回ることを夢見ていた。そして5年目に、そのチャンスが訪れた。トップセールスマンとして、リオ・デ・ジャネイロ以北の地域を担当していたW氏が、独立してレシーフェに店を出すことになったのだ。彼は、レシーフェの将来性に賭けたのだ。私は、その後釜に登用され、同じ地域を担当することになった。そしてレシーフェを、3か月に一回の割合で訪れた。独立したW氏の店は、レシーフェのメインストリートにあり、「ワコー」という屋号で、日本製のお土産物などを扱っていた。当時、同市には日本人はほとんど住んでおらず、もの珍しさもあってか、結構繁盛していた。その頃、わが社が扱っていた主力商品は、パナソニック社製の小型テープレコーダーで、W氏は、二つ返事でオーダーし、店で取り扱ってくれた。

レシーフェ特産の淡水手長エビ、ピトゥー

レシーフェ特産の淡水手長エビ、ピトゥー

レシーフェに行くたびに、W氏とボア・ヴィアージェン海岸のビアー・ガーデンで、サンゴ礁の彼方に広がるエメラルドの海をながめながら、ジョッキを傾けたものだ。つまみは、いつもピトゥーという体長10~15cmの淡水エビの塩茹でで、エビとカニをミックスした伊勢エビのような、独特の味がした。二人でいつも大きなザル一杯のピトゥーを平らげた。

その後、私は10年勤めた貿易商社から、ユダヤ系ブラジル人の経営する百貨店に転職した。役職はスーパーヴァイザーで、ブラジル全土に有していた12店舗の経営状態を、定期的に訪れて点検する仕事だった。その支店の一つがレシーフェにあり、私は度々同市を訪れ、その度にW氏と旧交を温めた。ところが、それから2年後に、私に目をかけてくれていた社長が、突然心臓麻痺で急逝し、私は間もなく解雇された。それ以来、レシーフェとは疎遠になってしまった。

レシーフェのサンゴ礁を越えて、漁に出かける筏船、ジャンガーダ

レシーフェのサンゴ礁を越えて、漁に出かける筏船、ジャンガーダ

次の就職口が決まらず、あせっていた私は、ある日サンパウロの路上で、バッタリW氏と出くわした。何でも、レシーフェの店の経営状態が思わしくなく、10年目を契機に、サンパウロに引き上げてきて、保険代理店で働いているとのことだった。彼は、私が職を探していると聞いて、「一緒に保険代理店を興さないか?」と誘ってくれた。受諾した私は、それを契機に一貫して自営業の道を歩むことになり、今日に至っている。

私は今でも、自分の運命を開くキッカケになった、ブラジルのベニス、レシーフェのエキゾチックな街並みとエメラルドの海を、折にふれては懐かしく思い出す。(完)

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(95)ブラジル屈指の高級リゾート:ブジオス

リオ・デ・ジャネイロから170キロにあるブジオス

リオ・デ・ジャネイロから170キロにあるブジオス

リオ・デ・ジャネイロから車で、リオ/ニテロイ大橋を渡り、海岸線に沿って東に約170キロ走ると、ブラジルで最も有名なリゾート、ブジオスに到着する。

半島の周囲には23の美しい海浜がある

半島の周囲には23の美しい海浜がある

ブジオスは周囲が8キロの複雑な形をした半島で、23の美しい浜辺があり、赤道から南下する暖流と、南極から北上してくる寒流の交流点になっているので、温かい海水が打ち寄せる浜と、冷たい海水が流れ込む浜があることが、この地域の大きな特徴の一つになっている。入り組んだ海岸線にある浜辺は、どれも甲乙がつけ難いほど美しく、中でもジェリバー、トゥックンス、ジョン・フェルナンデス、フェハドゥーラ、フェハドゥリーニャ、アルマソン、マンギーニョス、タルタルーガ、オッソス、ブラバ、オーリョ・デ・ボイなどが特に美しく、人気がある。ちなみに末尾の2海浜はヌーディスト地域になっている。

ヌーディストたちが憩うブラバの浜

ヌーディストたちが憩うブラバの浜

ブジオスの年間平均気温は24℃で、時期を問わずさわやかでやや強めの風が吹き、同地域は、リオ州では最も年間雨量(750ミリ)が少ない。そのため、外国人たちから、「ブラジルの”サン・トロペ”」と呼ばれ、一年を通じて、世界中から訪れるツーリストたちは後を絶たない。

16世紀に、フランスの密輸業者が、ブジオスを拠点にして、パオ・ブラジル(幹が赤いブラジル特産の材木)を大量に本国に運びだし、17世紀になると、今度はアフリカから多数の黒人奴隷を運んできて、ブラジルにおける陸揚げ拠点とした。彼らは、奴隷導入が禁止された1850年以降も、闇で奴隷を陸揚げし続け、多大な利益を得た。このようにブジオスは、長期に亘ってフランス人によるひんぱんな往来があったが、彼らは、同地を商業ポイントとして活用したのみで、植民地にして住み着くことには興味を示さなかった。

19世紀になってからは、ブジオスの主な住民は漁師たちで、暖流と寒流が交わる、漁業には理想的な海の恩恵によって生計をたてていた。海流の関係で、時期になると多くの鯨が周辺の海を賑わし、それを捕獲した漁師たちは、肉を食用にし、採取した大量の油をブラジル中に売りさばいた。鯨の骨は集めて一つの砂浜に埋められたが、その浜は今日「プライア・デ・オッソ(骨の浜)」と呼ばれ、美しい海浜の一つとして人気を集めている。

1960年代になって、大都会から程よく離れ、閑静で美しいブジオスに目をつけたのが、サンパウロやリオ・デ・ジャネイロの、商工業界で活躍していたエリートたちで、マンギーニョスの浜に、同地では初めての、住宅(セカンドハウス)を、こぞって建て始めた。エリートたちは、この別荘を活用して、国内外の取引先や政治家を招待し、事業を有利に展開することに役立てた。ブジオスの美しさが、それに一役買ったことは言うまでもない。それがきっかけになって、ブジオスは、国内外の上流階級やセレブな人たちが訪れる、高級リゾートのシンボル的存在となっていった。

美しいブジオスの海を眺めるブリジット・バルドーの銅像

美しいブジオスの海を眺めるブリジット・バルドーの銅像

1964年に、当時世界的人気女優であったブリジット・バルドーが、ブラジルに在住していたマロッコス人の恋人、ボブ・ザグリと共にブジオスを訪れ、友人のアルゼンチン大使の別荘に長期滞在した。ブジオスの美しさにすっかり魅せられたバルドーは、本国に帰ってからも、機会ある度に、ブジオスの美しさへの賞賛の言葉を惜しまず、その後、お忍びで、クリスマスをブジオスで過ごすなどして、同地を心から愛した。それを一フランス人記者が世界中にリークし、それがキッカケになって、ブラジル・リオ州の片田舎にある漁村、ブジオスは世界に知られる存在となり、外人観光客が次々と訪れるようになった。当時、訪れる観光客を宿泊させるホテルがなく、人々は漁師たちの家で、民宿しながらブジオスの海を楽しんだという。ちなみに、ブリジット・バルドーが滞在した、元アルゼンチン大使の別荘は、「ポウザーダ・ド・ソール(太陽の宿)」という名の民宿に姿を替えて、今も観光客に親しまれている。

16、7世紀にフランス人たちが、莫大な富を得る拠点となったブジオスが、奇しくも一人のフランス人女性によって、「倍返し」の恩恵を被ることになったのだ。ブジオス市は、それに敬意を表し、砂浜に腰かけて、美しい海を眺めるブリジット・バルドーの銅像を、永久に街に残した。

最も美しい海浜の一つ、カラヴェラスの浜

最も美しい海浜の一つ、カラヴェラスの浜

1976年に、ブジオスがさらに脚光を浴びる事件が起きた。ブラジル映画界で活躍し、上流階級の人たちと広く交際のあった美人女優、アンジェラ・ジニスが、恋のもつれから情夫に殺害され、「オッソ(骨)の浜」で、無残な死体となって発見されたのだ。ニュースは瞬く間に世界中に流れ、高級リゾート、ブジオスの名はさらに広く知られるところとなった。

2002年には、ヨーロッパのある観光雑誌が、「世界で最も太陽と海を楽しめる場所」として、ブジオスを選んで掲載したことで、ヨーロッパにおけるブジオスの知名度は、決定的なものとなった。

特筆すべきは、ブジオスは、上流階級、外交官やセレブな人たちもさることながら、国の内外、何処からを問わず、芸術家、歌手や俳優などの芸能人が好んで訪れる、リゾート地として知られており、街角や浜辺で有名人に出くわすのは日常茶飯事だ。そんな時、ジロジロと見たり、振り返ったりしないのが、ブジオス流のエチケットだ。

ダウンタウンの商店街

ダウンタウンの商店街

ブジオスを訪れた外国人たちは、一様にその魅力の虜になってしまうが、その内、観光で訪れるだけでは飽き足らず、同地に住んで商売を始める人たちが出現しはじめた。中でも、フランス人とアルゼンチン人が多く、彼らによって、ダウンタウンに様々な店や、レストラン、バーなどが次々に軒を並べるようになった。ブジオスの海浜の美しさもさることながら、外国人たちが先鞭をつけた、ダウンタウンのエキゾティックな商店街も魅力的だ。お洒落なブティックや土産物屋、垢抜けのしたバーやレストランなどは、他のブラジルの街とは一風違った、独特の雰囲気を醸し出している。

丘陵から海岸に向けて広がるブジオス・ゴルフクラブ

丘陵から海岸に向けて広がるブジオス・ゴルフクラブ

私は、これまでにブジオスを三度訪れた。二度は、ブラジル・シニア・ゴルフツアーのブジオス・オープンに参加するためだ。ブジオス・ゴルフクラブは、なだらかな丘陵から海岸にかけて広がる18ホールのチャンピオン・コースで、北米のゴルフ場設計第一人者、ピート・ダイのプロジェクトによるものだ。ピート・ダイの手になるゴルフ場は、概して立木がほとんど無く、フェアウエイの両サイドはブッシュで覆われていて、曲がったボールを飲み込んでしまう。大き目のグリーンは、うねりが大きく、例えオンしても、常にスリーパットの可能性が伴う。極めつきは、海岸に近い180ヤードのショートホールで、常にアゲインストの強い浜風が吹いていて、ドライバーで叩いても、ヤットコさ届くかどうかである。私は、この難コースの攻略に手こづり、入賞どころか、二度とも下位に甘んじてしまった。

ブジオスに向かう大型客船

ブジオスに向かう大型客船

三度目は、サントス港からデラックス客船で、大陸沖を北上して終着点、ブジオスに向かう3泊4日のツアーに参加して訪れた。前回二回はゴルフに集中していたので、折角の観光地を何一つ楽しむことなくブジオスを後にしたが、三回目になってその美しい海浜巡りや、エキゾチックな商店街のそぞろ歩きなどで、初めて高級リゾートを心ゆくまで堪能することができた。

船旅といえば、50年前に移民船でブラジルに渡った時は、劣悪な環境の船倉と、重症の船酔でロクに食事もできなかったことが記憶に残っており、いい思い出はなかったが、今回はそれ以来の船旅で、うねりの少ない近海を大型客船で航行したせいか、揺れも少なく、食事もおいしくて、快適な旅を楽しむことができた。

美しいジュケイーの海岸

美しいジュケイーの海岸

実は、ブラジルにはブジオスのように、何かがキッカケになって高級リゾートとして脚光を浴びる可能性のある場所がいくつかある。サントスからリオ・サントス街道を、海岸線に沿って80キロ北上した所にある、ジュケイーという街もその一つだ。規模は小さいが、一昔前のブジオスを忍ばせるような、さしずめ、ミニ・ブジオスといった雰囲気の街だ。モジ・ダス・クルーゼスに住んでいる友人のセカンドハウスがジュケイーにあることから、偶然知ることになったが、美しい海浜、洒落た店々、垢抜けたバーやレストランなどがあって、既に多くの中・上流階級の人たちが、海辺にセカンドハウスを構えている。それからさらに、30キロをリオ方向に進むと、マレジアの街がある。こちらはジュケイーよりやや大きく、ダウンタウンの店の数も多くて、立ち並ぶ別荘の構えはジュケイーの家々より一回り大きい。この街の海はサーフィンに向いているので、遠方から若者たちがこぞって訪れるため、年中活気に溢れている。リオ・サントス街道沿いには、それ以外にも、何かがキッカケになって、将来ブレークしそうな、海が綺麗でお洒落な街があるリゾート候補地が、まだまだたくさんある。(完)

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(94) 日本人移民、再起の原点・モジ・ダス・クルーゼス

1908年6月18日、781名の日本人を乗せた笠戸丸は、延々51日間の航海の末、ようやく朝霧に煙るブラジルのサントス港に辿り着き、錨を下ろした。彼らは、ブラジルに到着した最初の日本人移民で、夢と希望に胸を膨らませながら次々とタラップを降り、異国の大地を踏みしめた。

しかし、移民斡旋会社の甘い誘いの言葉を信じ、一攫千金を夢見て、はるばる地球の反対側からやってきた彼らを待ち受けていた現実は、想像を絶する過酷なものであった。

「金のなる木」といわれたコーヒーの木

「金のなる木」といわれたコーヒーの木

宣伝文句にあった「金のなる木」が生い茂ったコーヒー農園は、確かに存在した。しかし、奴隷の代替として導入された移民たちの生活は「金」とは全く無縁であった。宿舎とは名ばかりの元奴隷小屋が与えられ、労働は日が昇る時間から沈むまでという、奴隷時代のパターンが踏襲された上に、わずかな賃金は、農場内の売店で調達する食料代で全て帳消しになったばかりか、不足分は借金として残った。これでは、移民派遣会社がうたっていたように、「5年で金持ちになって故郷に錦をかざる」どころか、100年働いても祖国に帰る船賃もでない。こんな状況に甘んじているより、イチかバチかの運命にかけようと、夜警の目を盗んで夜の闇にまぎれて農場を脱出する人たちが相次ぎ、最初の移民の大部分が一年も経たずにコーヒー農場を後にした。

それからの10年は、日本人移民にとって暗黒の時代となった。命からがら農場を脱出したものの、言葉も事情も分からない異国で、鉄道作業員など過酷な肉体労働にしか生活の糧を見出すことができず、多くの人たちは健康を害して、次々とブラジル大地の土と化していった。

この現実に、手をこまねいている訳にいかなくなった移民会社は、農場から脱出した移民と、これから上陸する新移民たちのために、独自に土地を入手して、植民地を造ることにした。サンパウロ州で移民会社が物色した土地は、日本の伝統的な農業である水田米の耕作を目的としたものであったが、それが移民たちに、新たな悲劇をもたらす結果となった。水田米に適した低地の湿地帯は、とりもなおさず、マラリアの発生源だったからだ。

当時、日本人たちはマラリアに関する知識がなく、初めは単なる発熱だと思っていたが、次々と多くの人たちが熱をだし始め、ほどなく最初の犠牲者がでた。マラリアは倒れたら二度と起き上がれない。投薬や治療も効果がなく、次から次へと死者が増え、毎日誰かの葬式が行われる有様であった。家族全員が病に倒れ、親族の参列もないままに埋葬された人たちも多く、その内、余りにも多くの犠牲者がでたために、死人は森で伐採された薪を焚いて荼毘に付された。

このように、移民たちを救済するはずだった、移民会社による、第一期の植民地政策は失敗に終わり、かろうじて生き残った人たちは、新たな生きる場所を求めて各地へと分散していった。こうして暗黒の時代といわれる10年が経過した。

そんな暗黒時代に、一抹の光明を与えることになったのが、モジ・ダス・クルーゼスである。それは、最初の日本人移民がブラジルに到着してから11年後の1919年に、モジに、鈴木シゲトシ・フジエ夫妻がやってきたことがキッカケだった。秋田県出身の夫妻は、最初移民会社が造設したタカリチンガ植民地に入植する予定でブラジルにやってきたが、同地にマラリアが蔓延したために急遽目的地を変更して、モジ・ダス・クルーゼスに辿り着いたという。この鈴木夫妻の到来が、日本人移民に再び希望の光をもたらすことになる。その要因になったのは、当時32才だったシゲトシ氏は、日本で農業大学を卒業した後、祖国で野菜栽培にたずさわっていたので、その知識が豊富だったことだ。モジの地を選んだ理由も、経験から、気候が野菜の栽培に向いていると判断したからだった。鈴木夫妻の蔬菜栽培は、間もなく軌道に乗り、それを伝え聞いた、各地に分散していた日本人移民たちは、次々とモジ・ダス・クルーゼス周辺に集まり始めた。

山に囲まれた盆地にあるモジ・ダス・クルーゼスの町

山に囲まれた盆地にあるモジ・ダス・クルーゼスの町

モジ・ダス・クルーゼスは今年、創設450年を迎えた古い町で、イタペチ山脈と、海岸山脈に囲まれた盆地にある。19世紀の、コーヒー栽培全盛時代には、この地もご多分にもれず、コーヒー農場が幅を利かしていた。しかし奴隷解放による人手不足と、アメリカに端を発した世界不況の影響で、コーヒー価格が暴落したことで、元々山岳地帯で、地形がコーヒー栽培には向いていなかったこともあって、農場主たちは次々とコーヒー栽培に見切りをつけて土地を放棄し、新たな農地を求めて移動していった。農場の跡地には、カボクロと呼ばれる、元奴隷や使用人たちがそのまま居残って、マンジョカ(たろ芋の一種)などを植えて、細々と自給自足の生活をしていた。

元々地主ではなく、そこに居座っていただけのカボクロたちが、安価に借地を提供してくれたことも、日本人にとっては極めてラッキーであった。

モジのレタス畑

モジの日本人が経営する蔬菜畑

このようにして鈴木夫妻が先鞭をつけて、モジ・ダス・クルーゼス市の郊外で、日本人たちによる、茄子、トマト、キューリ、大根、白菜、キャベツなどの野菜栽培が始まった。当初、モジのブラジル人たちには、野菜を食べる習慣がなかったために、市内での販売はイマイチだったが、ある日本人が70キロ離れたサンパウロ市の中央市場に野菜を持ち込んだことで、様相が一変した。

モジ特産の柿

モジ特産の柿。ポルトガル語でも「caqui」と呼ばれる。

当時サンパウロ市は、ブラジル商工業の中心地として大都市への発展途上にあり、膨れあがる人口は、イタリアを中心とするヨーロッパからの移住者たちで占められていた。彼らは、祖国では習慣的に野菜を食していた人たちだったので、当時ブラジルでは栽培されていなかった野菜類に飢えていた。そこへタイミングよく中央市場に持ち込まれたモジ産の野菜に歓喜して飛びついた。それをきっかけに、サンパウロの中央卸市場から、ブラジル全土に野菜が配送されるようになり、モジの野菜は作れば作るだけ売れるようになっていった。温暖な気候は、果物の栽培にも向いており、柿、桃、イチジク、梨、ポンカンなど、東洋的な果物の栽培を手掛ける日本人が現れ、こちらもブラジル人にもてはやされた。モジにおける野菜栽培の大ヒットは、たちまちブラジル全土に分散していた日本人たちに伝わり、それぞれの土地で同じように野菜栽培を手掛けるようになって、日本人移民たちは、次第に暗黒時代から脱却して生きる活路を見出し、ブラジルにおける未来に希望を抱くようになっていった。

ichiro当初は借地を畑にしていたモジの日本人たちは、やがてカボクロたちから土地を買い上げ、小規模とはいえ、ブラジルで最初の日本人地主が、次々と誕生するようになった。その内、より大きな土地を手に入れた人たちは、大規模な養鶏やジャガイモ栽培も手掛け、成功を収めた。今でこそ、日系人の農業従事者たちの数は減ったが、モジ市の郊外にいくと、その昔、彼らが開墾した畑に通じる、日本人の名前がついた道路が今も多く残っている。

黙々と野菜造りに励む日本人は、勤勉な人種として、ブラジル人誰しもが認めるところとなり、ブラジル人社会との接触が深まるに従って、誠実・正直に加えて謙虚な生活態度が、ブラジル人たちから大きな好感を得て、いつしかそれが日本人キャラクターの代名詞となり、確固たる市民権を獲得していった。後日、「ジャポネース・ガランチード(日本人は保証付)」の言葉が生まれ、日本人たちは、ブラジル人たちから絶大な信頼を得ることになっていく。

ダウンタウンの移民広場にある日本人移民家族の銅像

ダウンタウンの移民広場にある日本人移民家族の銅像

こうして、モジの町は日本人移民のお蔭で経済的にも潤うようになり、人口も増えて発展してゆくことになる。そのため、市ではダウンタウンの一角にある広場を「移民広場」と名付け、初期の日本人移民家族を模した銅像を建てて、その貢献に対し、永久的な敬意を表している。

日本人が最も多かった時期には、人口の30%を占めるまでになり、街のあちこちで日本語が飛び交い、まるで日本の町のような様相を呈していたこともあった。ところが1990年から始まった日本への出稼ぎブームで、モジの日系人社会に変化が起こった。ブームに便乗して、モジ市から日本へ出かけた日系人は、ブラジル全国で最も多く、約5万人(出稼ぎ総数は30万人)が流出した、と言われている。日本語が話せ、ある程度日本文化を身につけていたモジっ子たちは、日本での生活にそれほど違和感がなかったので、大部分の人たちが、そのまま日本に永住してしまった。その一方で、モジ市は商工業に発展が著しく、今では人口40万人の中堅都市になり、その分、日系人の占める割合は減ったというものの、今でも人口の一割を占めている。モジ・ダス・クルーゼスほど日系人の活躍が目覚ましく、尊重され、親しまれている町は、ブラジルでは他に例がなく、その活動の場は、農業は言うに及ばず、商工業、サービス業、医者、弁護士、学校の先生など、あらゆる分野に及んでいる。政治家も多く輩出し、中でも、モジ市長を二期務め、現連邦下院議員のアベ・ジュンジ氏は、市の発展に多大な貢献をし、市民に最も愛された日系人政治家として知られている。

野菜や果物がずらりと並ぶ日曜日の露天市場

野菜や果物がずらりと並ぶ日曜日の露天市場

私は、偶然、そんなモジ市に今年から住むようになった。というのは、この町に在住する日系二世の女性と、ふとしたことで知り合い、一年半の交際を経て再婚することになり、モジ市に居を構えたからだ。ゴルフ場が二つに乗馬クラブがあり、すし屋やラーメン屋があって、日系人が行き交う街の住み心地は、思った以上に快適である。毎週日曜日に開かれる青空市場には、ニラ、春菊、水菜、チソ、ほうれん草、シイタケ、シメジなど、他の土地では手に入らない野菜が並ぶことも、料理が趣味の私にとってはうれしい。

モジに住んでみて解ったことは、この町の日系人たちは、普段はブラジル人と同じ文化と習慣に基づいた日常生活を送っているが、それに加えて、いくつかの日本文化を身につけていて、極めて自然に使い分けながら生活していることだ。特筆すべきは、そのライフスタイルが三世、四世の子供たちによって、受け継がれていることだ。

しかし、世代が替わると伝えられる文化も少しづつ形が変化することは否めず、特にアルファベットで聞き覚えた日本語は、時々ドキッとするような表現が飛び出す。つい最近、二世の家内が小さなことにこだわる私の癖を見て、「金玉が小さい!」と言った。思わず噴き出した私は、その語源を問いただしたところ、父親がよく言っていたのだという。耳で聞いた日本語で、しかもイメージがローマ字表記になると「肝っ玉」が、いつのまにか「キンタマ」になってしまうのだ。

毎年開催されるモジ市の秋祭り。多くの日系人たちで賑わう

毎年開催されるモジ市の秋祭り。多くの日系人たちで賑わう

日本へ出稼ぎに行ったモジっ子が、週末にブラジル式のシュラスコ(焼肉)をしようと肉屋に出かけ、オヤジさんに、「心を500グラムください」と注文した。驚いたオヤジさんが聞き直したところ、鶏の心臓(ハツ)のことだった。いづれの話も、笑ってしまうが、どんな形にせよ、彼らが日本文化を受け継いでいこうという姿勢は、なんとも微笑ましい。毎年催される、秋祭り、運動会などには、どこにこれほど多くの日系人が住んでいるのかと思われるほど、多くの同胞たちで賑わう。彼らは、シュラスコと共に、おにぎりや煮しめを食卓に並べ、日常的に白飯、おしたし、酢の物、豆腐、漬物、味噌汁などを口にする。

カトリックの宗教行事で、モジ市街を馬で行進する筆者夫妻

カトリックの宗教行事で、モジ市街を馬で行進する筆者夫妻

私はこれまで、日本人が多くいる場所は、意識的に避けてきたような気がする。その理由はといえば、ブラジルに来てまで、日本的環境に身を置くのは、現地同化の妨げになって(言葉を覚えない、など)ナンセンスだ、という気持ちがあったからかも知れない。

そんな私が、人生の第四コーナーを回ったホームストレッチで、ブラジルで最も多くの日系人が在住する町に、日系二世の連れ合いと共に住むことになるとは、夢にも思わなかったが、本音をいうと、新しい伴侶とこの町を、心から気に入っている。(完)

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(93) あるブラジル人女性が見た日本

ミス日系人に応募したさん四世の女性たち

ミス日系人に応募した三・四世の女性たち

ブラジルには150万人の日系人が住んでいる。最初の移民が上陸してから一世紀を経た今日、世代は移り、今や三世、四世の時代になりつつある。この世代になると、日系人の半数は混血になり、日本語を話せる人たちは稀で、現地の文化と習慣を身につけ、ブラジル社会にすっかり溶け込んだ、紛れもないブラジル人たちである。祖父母は既に他界し、両親もブラジル生まれの彼らは、日系人であるという自覚はあっても、日本の国に関する生の話を直接聞かされたことがないため、日本の国を身近に感じることはなく、感覚的には、日本はイタリア、フランス、イギリスなどの国々と何ら変わりのない、外国の一つである。

その点二世は、日本語を話せる人が多く、日本生まれの両親からさんざんすばらしい祖国の話を聞かされてきた人たちなので、日本に対する関心も高く、一度は訪れてみたい国に違いない。そんな二世たちも、今では大部分の人たちが既に高齢者の域に達していて、訪日の夢を実現した人たちも多くいる半面で、何らかの理由でまだ日本を知らず、今生での訪日をなかば諦めてしまっている人たちも少なくない。

山に囲まれた盆地にあるモジの町

山に囲まれた盆地にあるモジの町

私は、やもめ暮らしをしていた昨年、ある二世の女性と知り合った。彼女は、日系人が人口の一割を占める、モジ・ダス・クルーゼスという町で、ブチックのチェーン店を経営する60代の未亡人であるが、大の旅行好きで、北米やヨーロッパの国々はほとんど訪れているにも関わらず、意外なことに、まだ一度も日本に行ったことがないという。

彼女の父親は東京都出身で、1935年に16才で家族と共にブラジルに移住し、同じ頃、やはり家族移民で3才で渡伯した、大阪府出身の母親との間に生まれた、いわゆる純血の二世だ。

父親からいつも日本の話を聞かされていた彼女は、訪日の願望は常にあったにもかかわらず、今まで行かなかった理由は、ある「情報」が、亡夫(日系人)と彼女に日本行きを躊躇させていたからだ。

その「情報」というのは、日本を訪れた同じ二世の友人たちの体験に基づいたもので、日本(特に都会)では「日系ブラジル人は馬鹿にされて恥ずかしい思いをする」、というものだった。それは駅などで、通りすがりの人に(日本語で)、行き先を言って乗り換え口を訊いたりしようものなら、「そこに書いてあるだろう!」とガイド・ボード(大部分が日本語表示)を指さして、つっけんどんに言われることが、ほとんどだという。また、ウインドーのおいしそうなサンプルを見て、レストランに入ったまではいいが、メニューが読めないために、サンプルを指さして注文せざるを得ず、その度にウエイトレスの冷ややかなまなざしが気になって、肩身の狭い思いをするという。

日本語表示の案内板

日本語表示の案内板

日本人からすれば、世界には日本語を話せても、読めない人たちがいるという現実を知る由もないので、日本人の顔をした者から日本語で訊ねられれば「訊くより、読めばいいだろ!」ということになるのだろうが、一方の読めないガイドボードやメニューを前に、立ち往生状態になった二世は、冷たく扱われてバカにされたように感じられ、人によっては、日本(日本人)に対する良いイメージが、一瞬にして壊れてしまうほど、屈辱的な体験だという。

全てのガイド・ボードやメニューをローマ字併記にすれば、この種の外国人とのトラブルは未然に防げると思われるのだが…。

笑えない笑い話のような理由で、数十年も訪日に踏み切れないでいた彼女の話を聞いて、私は、ぜひホピタリティー豊かな日本を見せて、誤解を解いてやろうと思い、今年の4月、桜の咲く時期を選んで、彼女を同行して帰国した。以下はそんな彼女の日本に対する印象だ。

右も左も日本人だらけ:

日系人は人口の1%に満たない雑多民族の国で生まれ育った彼女は、最初に訪れた東京の雑踏で、前後左右見渡すかぎり、100%が全て日本人であることに違和感を感じ、慣れるまで、しばらくは居心地が悪そうだった。

女性のファッション:

商売柄、まず女性のファッションに目がいったようだ。最初、東京の女性たちは服装がテンデンバラバラで、ファッション性が不在の印象だったようだが、2,3日するとそれは、それぞれが個々にコーディネイトされていて、極めて個性的なバラエティーに富んだ、ファッション性の高いものだとの見方に替わった。

男性の服装:

女性がバラエティーに富んだ服装で街を歩いているのに比べ、男性は、年齢に関係なく、一様に黒っぽいスーツを着用していることを、「ペンギンの国みたい」と、とても不思議がっていた。

石庭にしばし佇む

石庭にしばし佇む

桜:

今年は暖冬で、例年より十数日桜の開花が早く、東京に到着した日には、既に桜は散っていたが、数日後に訪れた京都では満開で、その美しい景観に、心から感動していた。

雑踏と秩序:

繁華街や駅などで、見渡す限り人で一杯の雑踏でも、行き交う人々が、衝突したり肩が触れ合ったりすることなく、そのくせ、かなりのスピードでスムースに流れていく現象は、多民族国家のブラジルでは先ず考えられないことで、「思考プロセスが似かよった単一民族ならではのものかしら」、と驚いていた。

東京の地下鉄:

サンパウロにも地下鉄はあるが、その路線は縦横斜めくらいなのに比べ、網の目のように張り巡らされた東京の地下鉄には驚嘆していた。毎日のように利用したが、エスカレーターが設けられた出入口はあるものの、その数は少なく、徒歩で階段を上がり降りするケースが多いことにうんざりしていた。路線の乗り換えのために、かなり長距離を歩かねばならないことに、「電車に乗っている時間より歩く時間の方が長いみたい」と言って参っていた。また、ブラジルでエスカレーターを駆け上がる人は先ず見かけないが、日本では、幅の狭いエスカレーターの半分を空け、一方に寄って立つ人たちの横を、猛スピードで駆け上がる人たちが多いことに驚いていた。「なぜ日本人は、動いているエスカレーターを駆け上がるのかしら?」

市街を走る人たち

朝、駅の近くで、(多分電車に遅れまいと)走っている人たちが多いことに、目を丸くしていた。ブラジルでは、市街を走る人を見ることは極めて稀で、昔から、街を走っている人を見れば、スリか泥棒と思え、と言われている。朝の電車は2~3分間隔で発車するにも関わらず、乗り急ぐ人たちに首をかしげていた。「日本人、そんなに急いでどこへ行く」

一人歩きする子供たち:

街中で、制服にランドセルを背負った小さな子供が、一人で路線バスに乗り込み、慣れた素振りで定期券を車掌に見せて、また下車してゆく姿を、目を丸くして見ていた。治安の悪いブラジルでは先ず考えられないことで、学校には親が車で送り迎えするのが当たり前だからだ。

電車内のケイタイ電話:

電車に乗ると、ケイタイを手にして、黙々と操作している人たちが、とても多いことに驚いていた。ブラジルでは、携帯電話はその名の通り、話すために利用する人がほとんどだが、日本では電話機能が付いているケイタイ・パソコンといった感じで、もっぱらインターネットやメッセージの送受信に使っていて、話している人は極めて少ない、との印象を受けた。

ごみ箱が無いっ!

東京の街路にはゴミ一つ落ちていないことにまず驚いた。彼女はチリ紙を捨てようとゴミ箱を探したが、どこにも見当たらない。日本では、それぞれのゴミは、自分の家に持ち帰ることになっているので街にゴミ箱は無いのだ、と聞かされて、もう一度驚いた。「ウソっ、ブラジルでは考えられないっ!」

ゴルフの練習場:

東京の都心にある、3階建ての半円形のゴルフ打球場で、打席にずらりと並んだゴルファーたちが、黙々とただひたすら正面のネットに向かって、ボールを打っている姿には、かなり驚いたようだ。ゴルフを始めたばかりの彼女は、ボールを打ったら自動的に次のボールがティーアップされるメカニズム(ブラジルには無い)が、すっかり気にいって、暇があれば打球場に出向いて、時を忘れて練習をしていた。

日本製のゴルフクラブ:

ビギナーの彼女は、アメリカ製のクラブ(テーラーメイド)を購入して使っていた。平均身長175センチのアメリカ人女性用のクラブが、150センチそこそこの彼女にはイマイチ合っていなかったようで、日本で購入したブリジストン社製の女性用クラブを手にした途端に、飛距離も方向性も別人のように良くなった。「信じられないっ!」

食事:

とんかつ、すし、刺身、うな重、天ぷらなどが特に気に入ったようだ。特に刺身は(例えば鯛など)、ブラジルでは味わえない身の締まったシコシコ感に、(大西洋と太平洋の)「生息する海の違いかしら?」と首をかしげていた。

秋葉原:

秋葉原のヨドバシ・カメラに入った途端、溢れるように陳列された電気製品に圧倒されて目を丸くしていた。彼女は、1階から10階までの売り場を、精力的にくまなく歩きまわり、カメラ、パソコン、炊飯器、美容器具、化粧品などを買いまくった。特に気に入ったのは、ウオッシュレットで、結局3台購入し、わざわざカバンまで買って、ブラジルに持ち帰った。ブラジルにはまだ余り普及していないポイントカードのシステムが気に入ったようで、経営する自分の店舗に導入を決めたようだ。東京滞在中は、飽きもせず、毎日のようにヨドバシ・カメラに通っていた。

箱根で温泉を楽しむ

箱根で温泉を楽しむ

温泉:

箱根の日本的な自然の風景は、ブラジルの自然とは異なって情緒に溢れていると、滅法気に入ったようだ。初めて入った温泉がすっかり好きになり、病みつきになってしまった。九州一周旅行に参加して、別府、阿蘇、霧島温泉を歴訪したが、どこでも必ず朝晩湯に浸かって、温泉を心ゆくまで楽しんでいた。

新幹線から富士山を望む

新幹線から富士山を望む

新幹線:

正確な発車時間、スピード感、清潔な車内、目まぐるしく移り変わる風景など、驚きの連続のようだった。

店員の応対:

商売柄、お店の店員の応対に注目していたようだ。業種に関わらず、どんな店でも(おそらくマニュアル通りの)丁寧で質の高い対応には、感心しきりであった。

夜半の街:

何度か、夜遅くに街を歩くことがあったが、夜半に女性たちが一人歩きをしている姿を見て、ブラジルでは考えられないことなので、日本の治安の良さ(ブラジルの悪さ)を痛感したようだ。

ゼロ戦の前で

ゼロ戦の前で

鹿児島県、知覧:

特攻隊の基地があった場所を訪れ、博物館、戦没者と同じ数の灯籠、戦闘機を見て、感銘を受けたようだ。彼女の父親がもしブラジルに移住していなければ、年齢的に戦没者になっていた可能性が高いことに思いを巡らせ、考え深げだった。

原爆ドームの悲惨さに唖然とする

原爆ドームの悲惨さに唖然とする

広島:

原爆ドームのある平和公園を訪れ、(話に聞いていた)第二次世界大戦の悲惨さを、実感したようだ。

農村の風景:

バスで九州巡りをしたが、大都会とは余りにもかけ離れた、のどかな農村の風景に、同じ国とは思えない、と言って見入っていた。農家の裏庭に建っている墓石を見て(土葬が主流の)「ブラジルでは考えられない!」、と驚いていた。

日本人の閉鎖性:

バス・ツアーでは、4泊5日の間、20組の夫婦と行動を共にしたが、会話はそれぞれの夫婦間のみに限られ、他の夫婦とはほとんどしゃべることがないことを奇異に感じていた。というのも、もしブラジルなら、二日目には20組とも旧知の友人たちのように、お互いに会話が行き交い、話題が弾むのが普通だからだ。

駆け足で、日本の3分の2を見て回った旅の合間に、耳にした彼女のコメントを拾って列記した。彼女の訪日を今まで躊躇させていた、日本人の冷たさに出会うこともなく、帰路には父母の祖国を訪問できた満足感に浸っている彼女を見て、私も安堵した。(完)

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(92) ホタル

vagalume 2今日、久しぶりにホタルを見た。

グアルジャー島の自宅前から海浜まで200m余り続く草原に、それははかなげな光を放ちながら飛び交っていた。

去る4月、日本は始めての日系ブラジル人の連れ合いを伴って訪日した際、九州一周のパッケージ・ツアーに参加し、初めて南端の鹿児島にまで足を延ばした。そしてツアーの行程で、思いがけず、あの特攻隊の基地があった場所、知覧を訪れた。

基地跡に再建された、特攻隊員が出撃前の数日間、寝泊りしたという三角形の宿舎、復元された旧式戦闘機、それに彼らの遺留品を保管した博物館の存在は、訪れた人々に当時の様子を生々しく思い起こさせるのに充分で、さらに作戦で命を落とした隊員たちと同数あるという、1千200体余りのずらりと並んだ灯篭は、特攻隊が単なる語り草ではなく、まぎれもなく現実の、悲惨な出来事であったことを如実に物語っていた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAとりわけ特攻隊員の年令が、17才から22才の若者たちであったことに、私は強く胸をうたれた。というのは彼らと同じ年令で、ブラジルに一人で旅立った自分のことが、思い起こされたからだ。

出港前、神戸山麓にある移民収容所で数日間寝泊りした後、船に乗り込んだ18才の私には、遠い別世界に旅立てば、二度と祖国に戻れないかもしれず、見送ってくれた父母兄弟、友人、恋人とは今生の出会いは無いかもしれないという心の痛みと、未知の国に対する大きな不安があったが、それに勝る、どんなことがあっても生き抜こうという決意と、未来への希望があった。それに比べ、三角宿舎で数日間寝泊りした後、戦闘機に乗り込んで、死の世界に旅発った彼らの心境は、いかばかりのものであったろうか。

同伴した連れ合いはブラジル生まれの日系二世で、戦前に16才で家族とともにブラジルに移住した父親の年令を逆算すると、特攻隊員と同年代に当たることを知り、もし父の家族が移住せずに日本に留まっていたとすれば、父親は戦死していた可能性が高く、そうなると自分は存在しないことになるので、感慨深げであった。

私は、知覧の小さな売店の棚にあった「ホタル」というタイトルのDVDが目に留まり、思わず手を延ばした。ブラジルに戻ってから、高倉健主演のそのDVDを鑑賞したが、知覧の地を踏んできた直後だっただけに、涙が止まらなかった。そして今日、はかなげに草原を飛び交うホタルを見て、死に向かった一隊員が、ホタルになって基地に戻ってくるシーンを、再び感慨深く思い出していた。

映画で、生き残った特攻隊員を演じる高倉健が、レポーターの取材で語った「死んでいった者、生き残った者、どちらにとっても人生は決して生易しいものではない」というセリフは、「ブラジルに行った者、日本で生きた者、いづれの人生も決して生易しいものではない」と言っているように聞こえ、今回の訪日で再会した同窓生たちに、改めて深い親近感を覚えた。

さて、そのDVDを連れ合いに見せたところ、「極めて退屈だ」という。彼女は日本語が解るが、この映画のセリフは半分も理解できないという。従って映画の内容も半分位しか理解できないということで、特に感動した様子もなかった。そういわれてみれば「ホタル」は、戦争と敗戦という、日本人にしか理解できない背景があってこそ、セリフも内容も理解できる映画なのかも知れない。

彼女曰く、高倉健が演じる、いつもむっつりしていて、ポツリポツリしか話さない男性像は、ブラジルでいうと、亭主としては最も退屈なタイプだという。日本では伝統的に、同じタイプの亭主が絶対数では断然多いと思われるが、確かにブラジルには少ない(というか、ほとんど居ない)。初期の日本移民は、ほとんどの男性が同タイプだったと思われるが、移民の歴史が一世紀を経た今日、彼らの大部分は世を去り、世代が移って日系人も3世、4世の時代になると、日系男性たちの習性は一般のブラジル人たちとほとんど同じで、気持ちを態度だけでなく言葉で表現することが身についていて、女性に優しく、気配りすることを怠らない。

かくいう私も、今ではブラジルでは数少ない存在となった日本人男性であるが、過去に3回、結婚に失敗した原因は、ひょっとしてその辺にあるのかも知れない。

ブラジル生活が50年余にもなりながら、いつまでも「日本人亭主」を決め込んでいては進歩もなく、また連れ合いに見捨てられてはかなわないので、ブラジル人を見習って、せいぜい良きコミュニケーションを心がけ、女性に優しく、気配りを怠らないようにしようと思っている今日この頃である。  (完)

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(91)ブラジルの金髪女性が笑い話のネタに..

笑い話のネタ・金髪女性

笑い話のネタ・金髪女性

世界中のありとあらゆる人種が集まって形成されているブラジル社会は、いわゆる人種のルツボで、ブラジルに生を成せば、両親の国籍如何に関わらず、無条件でブラジル国籍が与えられるので、十人十色の肌、髪と目の色を持ち、千差万別の体型をした人たちが、皆同じ権利(と義務)を持ったブラジル人なのである。日本では、日本人といえば皆似かよった顔と体型をしていることが当たり前なので、ブラジルのこの現象は、日本の人たちにとっては少なからず奇異に感じられるかも知れない。

そんな国ブラジルは、人種はもとより、年令、性別、社会的地位、身体的特徴などに対して、いかなる差別をすることも、法律で厳格に禁止しており、違反者は禁固刑や罰金で、厳しく罰せられるので、建て前としては、人々はあからさまに差別を言動に表すことはない。しかし、一見、平和な国に見えるブラジルに、本当に差別がないかといえば、答えは「NO」で、折に触れてそれはチラチラと顔をだす。

loira gostosa Iその一例が、ブラジル人たちが好む「笑い話(ピアーダ)」で、ポルトガル人、日本人が格好の標的になって、よくネタにされるが、これはまぎれもなく一種の差別であろう。それと同じように「金髪女性」が笑い話のネタにされることが多いことは、外国では多分あまり知られていない。ただ、それを差別と目くじらをたてて、クレームをつけたり、訴えたりする人は皆無で、笑いとばしてしまうところが、ブラジル人らしいおおらかさの所以でもある。

ブラジルに在住する金髪は、ドイツ移民が多く入植した南部のリオ・グランデ・ド・スール州やサンタカタリーナ州に圧倒的に多いが、イタリア南部やロシアからの移民の子孫が多く住んでいる中央部のサンパウロ州やパラナ州にも結構多く見られる。パラナ州には、それ以外に、ポーランドやウクライナから移民が多く導入されたので、金髪のパーセンテージが高い。その他、東北部のペルナンブーコ州は、昔一時オランダによって占領されていた時期があったので、同州周辺にはその子孫の金髪が今でも多く見られる。それでも、全体的にはマイノリティーで、ブラジルでは、ラテン民族やアフリカ系、東洋系の黒髪を持つ人種が主流で、数的には圧倒的に多い。

そんな金髪女性たちが笑い話のネタにされる理由は定かではないが、ポルトガル人(鈍い)、日本人(ポ語が訛る)がターゲットになるように、黒髪が主流の社会で、頭の外見(髪の色)と同じように、中身も「薄い」という偏見からかも知れない。

金髪がネタになった「笑い話」の例をいくつか挙げてみよう。

loura I(その1)レストランで金髪女性がボーイを呼び、小声で耳打ちをした。

金髪「ねーボーイさん、オトイレはどちらかしら?」

ボーイ「反対側で…」

金髪女性はボーイの反対側の耳に口を寄せ「ねー、オトイレはどちらかしら?」

brasil_loura(その2)カウンセリングで精神科医が患者の金髪女性に訊ねた。

精神科医「あなた時々、誰からか、何処からなのか解らない声が耳に聞こえることがありませんか?」

金髪患者「はい、あります。」

精神科医「それはどんな時に?」

金髪患者「電話を受けた時です。」

loira-gostosa(その3)金髪の女性二人がショッピングセンターの駐車場で立ち話をしていた。すると突然一人が空を見上げてつぶやいた。

金髪A「あら見てごらん、真上の空にヘリコプターが止まったままでいるわ..」

金髪B「あっ、本当だ!もしかしてガス欠かしら?」
(その4)赤ん坊を抱えた金髪女性が薬局を訪れ、店員に小児用の体重計を使わせて欲しいと頼んだ。

Ana_Hickmann_(cropped)店員「あいにく、小児用は故障中ですが、大人用があるので、最初にママと赤ちゃんが一緒に乗って計り、次にママだけで計って、差を取れば赤ちゃんの体重がわかりますよ。」
金髪「それじゃー駄目だわ。」

店員「どうしてですか?」

金髪「だって私、この子のママでなく、叔母だから。」
(その5)二人の金髪美人が、夜の浜辺を散歩していた。

金髪A[ネーあなた、月と日本とどっちが遠いか知っている?]

金髪B「それは日本にきまっているわ。だって月は見えるけど、日本は見えないじゃない。」

loura japonesa統計によると、ブラジル国民の24%が、黒人またはその混血とされているが、金髪のパーセンテージは定かではない。それは、髪を染める人の数が多く、実数がつかめないからかも知れない。

ちなみに、ブラジルでは、勤勉で聡明ということになっている日系人女性が、髪の毛を金髪に染めているのにお目にかかることは先ず無い。理由は折角のポジティブな特徴を、台無しにしたくないからだ。

日本に行くと、頭を金髪に染めた若者たちをたくさん見かけるが、私には皆、なぜか間抜けに見えてしかたがない。                 (完)

カテゴリー: (ル)ルーツの多様性 | 1件のコメント

(90)ワールドカップの準備が進むブラジル

ゲーム開催予定のスタジアムの完成図

ゲーム開催予定のスタジアム完成図

2014年に自国で開催されるワールドカップに向かって、ブラジルは着々と準備を進めている。まずゲームが実施される12都市では、新たなスタジアムの建設が進行中で、その内8都市では既にほぼ完成、残りの4都市でも今年中に完成にこぎつける予定で工事が進められている。これに費やした経費は23億レアール(11,5億ドル)で、特筆されるのは全てのスタジアムが、エコロジーに配慮された造りになっていることだ。

世界中からブラジルを訪れる膨大なサッカーファンたちに対応するため、玄関口となる13ヶ所の空港の改造にも64億レアール(32億ドル)が計上され、既に8ヶ所における工事が完成間近で、その内サンパウロのヴィラコッポス空港は既に完成している。

急ピッチで工事が進むスタジアム

急ピッチで工事が進むスタジアム

また、最近急増している大型客船を利用してアクセスする観客にも配慮して、4ヶ所の港が、9億レアール(4,5億ドル)の予算で拡張または改造されており、本年末までに完成する予定となっている。

その他、新たなホテルの建設に刺激されて、建設業界全体が活況を呈しており、業界では従業員の不足が深刻で、ブラジル全体の失業率も2年前の6%から現在では4%に低下している。

参加する各国の代表チームが合宿する候補都市、51ヶ所がすでに公表されており、その中に、私が住むグアルジャー島と週の半分を過ごすモジ・ダス・クルーゼス市が含まれており、どの代表チームが合宿地として選択するか、興味深々である。特にモジ・ダス・クルーゼス市にある日系人が経営するパラダイス・リゾートホテルでは、日本代表チームに選択してもらえることを期待して、新たにサッカーフィールドを一面増設して、準備に万全を期している。

過去、ワールドカップ最多の優勝5回を誇るブラジルは、FIFAにおける世界ランキングでは、現在18位に低迷しており、2002年(日本・韓国開催)以来、優勝から遠ざかっていることもあって、サッカー王国と呼ばれる自国開催の威信にかけても、是が非でも6度目の優勝を勝ち取るべく、巻き返しの準備に余念がない。

フェリッペ新監督

フェリッペ新監督

開催までにわずか2年を残した今になって、2010年からナショナル・チームを率いてそこそこの成績を挙げてきたマノ・メネゼス監督を敢えて更迭し、ブラジルがワールドカップを最後に制した2002年の監督であったフェリッペ氏を起用するという大きな賭けに出たのは、その決意の表れであろう。

ブラジル・セレソンの選手層は大幅に若返り、過去にワールドカップを経験した選手で、代表候補に挙がっているのは、ロナルジーニョ・ガウーショとカカーの二人だけで(多分、この二人にチャンスはないだろう)、後は全て初体験の若手を中心に戦うべく、名伯楽フェリッペ監督の手腕が大いに期待されるところである。

ゲーム開催地分布図

ゲーム開催地、分布図

ブラジル全土に広がる12都市を使って開催される今回のワールドカップは、外国から訪れるサッカーファンたちが、お目当てのゲームを追っかけて移動する行程は、かなりハードになることは否めない。というのも、北端の都市マナウスから南端のポルト・アレグレ市までは直線距離で3千200キロ、西端のクイアバー市から東端のナタール市までは2千500キロの距離があるからだ。

日本代表チームは、ほぼ間違いなく出場権を獲得するであろうが、今回のワールドカップは、海外最大の日系人在住国(150万人)であるブラジル開催なので、これまでに日本が出場したどの国(日本を除く)に於ける大会よりも、こと応援に関しては盛り上がることは間違いないので、その活躍に大いに期待したい。              (完)

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