(94) 日本人移民、再起の原点・モジ・ダス・クルーゼス

1908年6月18日、781名の日本人を乗せた笠戸丸は、延々51日間の航海の末、ようやく朝霧に煙るブラジルのサントス港に辿り着き、錨を下ろした。彼らは、ブラジルに到着した最初の日本人移民で、夢と希望に胸を膨らませながら次々とタラップを降り、異国の大地を踏みしめた。

しかし、移民斡旋会社の甘い誘いの言葉を信じ、一攫千金を夢見て、はるばる地球の反対側からやってきた彼らを待ち受けていた現実は、想像を絶する過酷なものであった。

「金のなる木」といわれたコーヒーの木

「金のなる木」といわれたコーヒーの木

宣伝文句にあった「金のなる木」が生い茂ったコーヒー農園は、確かに存在した。しかし、奴隷の代替として導入された移民たちの生活は「金」とは全く無縁であった。宿舎とは名ばかりの元奴隷小屋が与えられ、労働は日が昇る時間から沈むまでという、奴隷時代のパターンが踏襲された上に、わずかな賃金は、農場内の売店で調達する食料代で全て帳消しになったばかりか、不足分は借金として残った。これでは、移民派遣会社がうたっていたように、「5年で金持ちになって故郷に錦をかざる」どころか、100年働いても祖国に帰る船賃もでない。こんな状況に甘んじているより、イチかバチかの運命にかけようと、夜警の目を盗んで夜の闇にまぎれて農場を脱出する人たちが相次ぎ、最初の移民の大部分が一年も経たずにコーヒー農場を後にした。

それからの10年は、日本人移民にとって暗黒の時代となった。命からがら農場を脱出したものの、言葉も事情も分からない異国で、鉄道作業員など過酷な肉体労働にしか生活の糧を見出すことができず、多くの人たちは健康を害して、次々とブラジル大地の土と化していった。

この現実に、手をこまねいている訳にいかなくなった移民会社は、農場から脱出した移民と、これから上陸する新移民たちのために、独自に土地を入手して、植民地を造ることにした。サンパウロ州で移民会社が物色した土地は、日本の伝統的な農業である水田米の耕作を目的としたものであったが、それが移民たちに、新たな悲劇をもたらす結果となった。水田米に適した低地の湿地帯は、とりもなおさず、マラリアの発生源だったからだ。

当時、日本人たちはマラリアに関する知識がなく、初めは単なる発熱だと思っていたが、次々と多くの人たちが熱をだし始め、ほどなく最初の犠牲者がでた。マラリアは倒れたら二度と起き上がれない。投薬や治療も効果がなく、次から次へと死者が増え、毎日誰かの葬式が行われる有様であった。家族全員が病に倒れ、親族の参列もないままに埋葬された人たちも多く、その内、余りにも多くの犠牲者がでたために、死人は森で伐採された薪を焚いて荼毘に付された。

このように、移民たちを救済するはずだった、移民会社による、第一期の植民地政策は失敗に終わり、かろうじて生き残った人たちは、新たな生きる場所を求めて各地へと分散していった。こうして暗黒の時代といわれる10年が経過した。

そんな暗黒時代に、一抹の光明を与えることになったのが、モジ・ダス・クルーゼスである。それは、最初の日本人移民がブラジルに到着してから11年後の1919年に、モジに、鈴木シゲトシ・フジエ夫妻がやってきたことがキッカケだった。秋田県出身の夫妻は、最初移民会社が造設したタカリチンガ植民地に入植する予定でブラジルにやってきたが、同地にマラリアが蔓延したために急遽目的地を変更して、モジ・ダス・クルーゼスに辿り着いたという。この鈴木夫妻の到来が、日本人移民に再び希望の光をもたらすことになる。その要因になったのは、当時32才だったシゲトシ氏は、日本で農業大学を卒業した後、祖国で野菜栽培にたずさわっていたので、その知識が豊富だったことだ。モジの地を選んだ理由も、経験から、気候が野菜の栽培に向いていると判断したからだった。鈴木夫妻の蔬菜栽培は、間もなく軌道に乗り、それを伝え聞いた、各地に分散していた日本人移民たちは、次々とモジ・ダス・クルーゼス周辺に集まり始めた。

山に囲まれた盆地にあるモジ・ダス・クルーゼスの町

山に囲まれた盆地にあるモジ・ダス・クルーゼスの町

モジ・ダス・クルーゼスは今年、創設450年を迎えた古い町で、イタペチ山脈と、海岸山脈に囲まれた盆地にある。19世紀の、コーヒー栽培全盛時代には、この地もご多分にもれず、コーヒー農場が幅を利かしていた。しかし奴隷解放による人手不足と、アメリカに端を発した世界不況の影響で、コーヒー価格が暴落したことで、元々山岳地帯で、地形がコーヒー栽培には向いていなかったこともあって、農場主たちは次々とコーヒー栽培に見切りをつけて土地を放棄し、新たな農地を求めて移動していった。農場の跡地には、カボクロと呼ばれる、元奴隷や使用人たちがそのまま居残って、マンジョカ(たろ芋の一種)などを植えて、細々と自給自足の生活をしていた。

元々地主ではなく、そこに居座っていただけのカボクロたちが、安価に借地を提供してくれたことも、日本人にとっては極めてラッキーであった。

モジのレタス畑

モジの日本人が経営する蔬菜畑

このようにして鈴木夫妻が先鞭をつけて、モジ・ダス・クルーゼス市の郊外で、日本人たちによる、茄子、トマト、キューリ、大根、白菜、キャベツなどの野菜栽培が始まった。当初、モジのブラジル人たちには、野菜を食べる習慣がなかったために、市内での販売はイマイチだったが、ある日本人が70キロ離れたサンパウロ市の中央市場に野菜を持ち込んだことで、様相が一変した。

モジ特産の柿

モジ特産の柿。ポルトガル語でも「caqui」と呼ばれる。

当時サンパウロ市は、ブラジル商工業の中心地として大都市への発展途上にあり、膨れあがる人口は、イタリアを中心とするヨーロッパからの移住者たちで占められていた。彼らは、祖国では習慣的に野菜を食していた人たちだったので、当時ブラジルでは栽培されていなかった野菜類に飢えていた。そこへタイミングよく中央市場に持ち込まれたモジ産の野菜に歓喜して飛びついた。それをきっかけに、サンパウロの中央卸市場から、ブラジル全土に野菜が配送されるようになり、モジの野菜は作れば作るだけ売れるようになっていった。温暖な気候は、果物の栽培にも向いており、柿、桃、イチジク、梨、ポンカンなど、東洋的な果物の栽培を手掛ける日本人が現れ、こちらもブラジル人にもてはやされた。モジにおける野菜栽培の大ヒットは、たちまちブラジル全土に分散していた日本人たちに伝わり、それぞれの土地で同じように野菜栽培を手掛けるようになって、日本人移民たちは、次第に暗黒時代から脱却して生きる活路を見出し、ブラジルにおける未来に希望を抱くようになっていった。

ichiro当初は借地を畑にしていたモジの日本人たちは、やがてカボクロたちから土地を買い上げ、小規模とはいえ、ブラジルで最初の日本人地主が、次々と誕生するようになった。その内、より大きな土地を手に入れた人たちは、大規模な養鶏やジャガイモ栽培も手掛け、成功を収めた。今でこそ、日系人の農業従事者たちの数は減ったが、モジ市の郊外にいくと、その昔、彼らが開墾した畑に通じる、日本人の名前がついた道路が今も多く残っている。

黙々と野菜造りに励む日本人は、勤勉な人種として、ブラジル人誰しもが認めるところとなり、ブラジル人社会との接触が深まるに従って、誠実・正直に加えて謙虚な生活態度が、ブラジル人たちから大きな好感を得て、いつしかそれが日本人キャラクターの代名詞となり、確固たる市民権を獲得していった。後日、「ジャポネース・ガランチード(日本人は保証付)」の言葉が生まれ、日本人たちは、ブラジル人たちから絶大な信頼を得ることになっていく。

ダウンタウンの移民広場にある日本人移民家族の銅像

ダウンタウンの移民広場にある日本人移民家族の銅像

こうして、モジの町は日本人移民のお蔭で経済的にも潤うようになり、人口も増えて発展してゆくことになる。そのため、市ではダウンタウンの一角にある広場を「移民広場」と名付け、初期の日本人移民家族を模した銅像を建てて、その貢献に対し、永久的な敬意を表している。

日本人が最も多かった時期には、人口の30%を占めるまでになり、街のあちこちで日本語が飛び交い、まるで日本の町のような様相を呈していたこともあった。ところが1990年から始まった日本への出稼ぎブームで、モジの日系人社会に変化が起こった。ブームに便乗して、モジ市から日本へ出かけた日系人は、ブラジル全国で最も多く、約5万人(出稼ぎ総数は30万人)が流出した、と言われている。日本語が話せ、ある程度日本文化を身につけていたモジっ子たちは、日本での生活にそれほど違和感がなかったので、大部分の人たちが、そのまま日本に永住してしまった。その一方で、モジ市は商工業に発展が著しく、今では人口40万人の中堅都市になり、その分、日系人の占める割合は減ったというものの、今でも人口の一割を占めている。モジ・ダス・クルーゼスほど日系人の活躍が目覚ましく、尊重され、親しまれている町は、ブラジルでは他に例がなく、その活動の場は、農業は言うに及ばず、商工業、サービス業、医者、弁護士、学校の先生など、あらゆる分野に及んでいる。政治家も多く輩出し、中でも、モジ市長を二期務め、現連邦下院議員のアベ・ジュンジ氏は、市の発展に多大な貢献をし、市民に最も愛された日系人政治家として知られている。

野菜や果物がずらりと並ぶ日曜日の露天市場

野菜や果物がずらりと並ぶ日曜日の露天市場

私は、偶然、そんなモジ市に今年から住むようになった。というのは、この町に在住する日系二世の女性と、ふとしたことで知り合い、一年半の交際を経て再婚することになり、モジ市に居を構えたからだ。ゴルフ場が二つに乗馬クラブがあり、すし屋やラーメン屋があって、日系人が行き交う街の住み心地は、思った以上に快適である。毎週日曜日に開かれる青空市場には、ニラ、春菊、水菜、チソ、ほうれん草、シイタケ、シメジなど、他の土地では手に入らない野菜が並ぶことも、料理が趣味の私にとってはうれしい。

モジに住んでみて解ったことは、この町の日系人たちは、普段はブラジル人と同じ文化と習慣に基づいた日常生活を送っているが、それに加えて、いくつかの日本文化を身につけていて、極めて自然に使い分けながら生活していることだ。特筆すべきは、そのライフスタイルが三世、四世の子供たちによって、受け継がれていることだ。

しかし、世代が替わると伝えられる文化も少しづつ形が変化することは否めず、特にアルファベットで聞き覚えた日本語は、時々ドキッとするような表現が飛び出す。つい最近、二世の家内が小さなことにこだわる私の癖を見て、「金玉が小さい!」と言った。思わず噴き出した私は、その語源を問いただしたところ、父親がよく言っていたのだという。耳で聞いた日本語で、しかもイメージがローマ字表記になると「肝っ玉」が、いつのまにか「キンタマ」になってしまうのだ。

毎年開催されるモジ市の秋祭り。多くの日系人たちで賑わう

毎年開催されるモジ市の秋祭り。多くの日系人たちで賑わう

日本へ出稼ぎに行ったモジっ子が、週末にブラジル式のシュラスコ(焼肉)をしようと肉屋に出かけ、オヤジさんに、「心を500グラムください」と注文した。驚いたオヤジさんが聞き直したところ、鶏の心臓(ハツ)のことだった。いづれの話も、笑ってしまうが、どんな形にせよ、彼らが日本文化を受け継いでいこうという姿勢は、なんとも微笑ましい。毎年催される、秋祭り、運動会などには、どこにこれほど多くの日系人が住んでいるのかと思われるほど、多くの同胞たちで賑わう。彼らは、シュラスコと共に、おにぎりや煮しめを食卓に並べ、日常的に白飯、おしたし、酢の物、豆腐、漬物、味噌汁などを口にする。

カトリックの宗教行事で、モジ市街を馬で行進する筆者夫妻

カトリックの宗教行事で、モジ市街を馬で行進する筆者夫妻

私はこれまで、日本人が多くいる場所は、意識的に避けてきたような気がする。その理由はといえば、ブラジルに来てまで、日本的環境に身を置くのは、現地同化の妨げになって(言葉を覚えない、など)ナンセンスだ、という気持ちがあったからかも知れない。

そんな私が、人生の第四コーナーを回ったホームストレッチで、ブラジルで最も多くの日系人が在住する町に、日系二世の連れ合いと共に住むことになるとは、夢にも思わなかったが、本音をいうと、新しい伴侶とこの町を、心から気に入っている。(完)

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(93) あるブラジル人女性が見た日本

ミス日系人に応募したさん四世の女性たち

ミス日系人に応募した三・四世の女性たち

ブラジルには150万人の日系人が住んでいる。最初の移民が上陸してから一世紀を経た今日、世代は移り、今や三世、四世の時代になりつつある。この世代になると、日系人の半数は混血になり、日本語を話せる人たちは稀で、現地の文化と習慣を身につけ、ブラジル社会にすっかり溶け込んだ、紛れもないブラジル人たちである。祖父母は既に他界し、両親もブラジル生まれの彼らは、日系人であるという自覚はあっても、日本の国に関する生の話を直接聞かされたことがないため、日本の国を身近に感じることはなく、感覚的には、日本はイタリア、フランス、イギリスなどの国々と何ら変わりのない、外国の一つである。

その点二世は、日本語を話せる人が多く、日本生まれの両親からさんざんすばらしい祖国の話を聞かされてきた人たちなので、日本に対する関心も高く、一度は訪れてみたい国に違いない。そんな二世たちも、今では大部分の人たちが既に高齢者の域に達していて、訪日の夢を実現した人たちも多くいる半面で、何らかの理由でまだ日本を知らず、今生での訪日をなかば諦めてしまっている人たちも少なくない。

山に囲まれた盆地にあるモジの町

山に囲まれた盆地にあるモジの町

私は、やもめ暮らしをしていた昨年、ある二世の女性と知り合った。彼女は、日系人が人口の一割を占める、モジ・ダス・クルーゼスという町で、ブチックのチェーン店を経営する60代の未亡人であるが、大の旅行好きで、北米やヨーロッパの国々はほとんど訪れているにも関わらず、意外なことに、まだ一度も日本に行ったことがないという。

彼女の父親は東京都出身で、1935年に16才で家族と共にブラジルに移住し、同じ頃、やはり家族移民で3才で渡伯した、大阪府出身の母親との間に生まれた、いわゆる純血の二世だ。

父親からいつも日本の話を聞かされていた彼女は、訪日の願望は常にあったにもかかわらず、今まで行かなかった理由は、ある「情報」が、亡夫(日系人)と彼女に日本行きを躊躇させていたからだ。

その「情報」というのは、日本を訪れた同じ二世の友人たちの体験に基づいたもので、日本(特に都会)では「日系ブラジル人は馬鹿にされて恥ずかしい思いをする」、というものだった。それは駅などで、通りすがりの人に(日本語で)、行き先を言って乗り換え口を訊いたりしようものなら、「そこに書いてあるだろう!」とガイド・ボード(大部分が日本語表示)を指さして、つっけんどんに言われることが、ほとんどだという。また、ウインドーのおいしそうなサンプルを見て、レストランに入ったまではいいが、メニューが読めないために、サンプルを指さして注文せざるを得ず、その度にウエイトレスの冷ややかなまなざしが気になって、肩身の狭い思いをするという。

日本語表示の案内板

日本語表示の案内板

日本人からすれば、世界には日本語を話せても、読めない人たちがいるという現実を知る由もないので、日本人の顔をした者から日本語で訊ねられれば「訊くより、読めばいいだろ!」ということになるのだろうが、一方の読めないガイドボードやメニューを前に、立ち往生状態になった二世は、冷たく扱われてバカにされたように感じられ、人によっては、日本(日本人)に対する良いイメージが、一瞬にして壊れてしまうほど、屈辱的な体験だという。

全てのガイド・ボードやメニューをローマ字併記にすれば、この種の外国人とのトラブルは未然に防げると思われるのだが…。

笑えない笑い話のような理由で、数十年も訪日に踏み切れないでいた彼女の話を聞いて、私は、ぜひホピタリティー豊かな日本を見せて、誤解を解いてやろうと思い、今年の4月、桜の咲く時期を選んで、彼女を同行して帰国した。以下はそんな彼女の日本に対する印象だ。

右も左も日本人だらけ:

日系人は人口の1%に満たない雑多民族の国で生まれ育った彼女は、最初に訪れた東京の雑踏で、前後左右見渡すかぎり、100%が全て日本人であることに違和感を感じ、慣れるまで、しばらくは居心地が悪そうだった。

女性のファッション:

商売柄、まず女性のファッションに目がいったようだ。最初、東京の女性たちは服装がテンデンバラバラで、ファッション性が不在の印象だったようだが、2,3日するとそれは、それぞれが個々にコーディネイトされていて、極めて個性的なバラエティーに富んだ、ファッション性の高いものだとの見方に替わった。

男性の服装:

女性がバラエティーに富んだ服装で街を歩いているのに比べ、男性は、年齢に関係なく、一様に黒っぽいスーツを着用していることを、「ペンギンの国みたい」と、とても不思議がっていた。

石庭にしばし佇む

石庭にしばし佇む

桜:

今年は暖冬で、例年より十数日桜の開花が早く、東京に到着した日には、既に桜は散っていたが、数日後に訪れた京都では満開で、その美しい景観に、心から感動していた。

雑踏と秩序:

繁華街や駅などで、見渡す限り人で一杯の雑踏でも、行き交う人々が、衝突したり肩が触れ合ったりすることなく、そのくせ、かなりのスピードでスムースに流れていく現象は、多民族国家のブラジルでは先ず考えられないことで、「思考プロセスが似かよった単一民族ならではのものかしら」、と驚いていた。

東京の地下鉄:

サンパウロにも地下鉄はあるが、その路線は縦横斜めくらいなのに比べ、網の目のように張り巡らされた東京の地下鉄には驚嘆していた。毎日のように利用したが、エスカレーターが設けられた出入口はあるものの、その数は少なく、徒歩で階段を上がり降りするケースが多いことにうんざりしていた。路線の乗り換えのために、かなり長距離を歩かねばならないことに、「電車に乗っている時間より歩く時間の方が長いみたい」と言って参っていた。また、ブラジルでエスカレーターを駆け上がる人は先ず見かけないが、日本では、幅の狭いエスカレーターの半分を空け、一方に寄って立つ人たちの横を、猛スピードで駆け上がる人たちが多いことに驚いていた。「なぜ日本人は、動いているエスカレーターを駆け上がるのかしら?」

市街を走る人たち

朝、駅の近くで、(多分電車に遅れまいと)走っている人たちが多いことに、目を丸くしていた。ブラジルでは、市街を走る人を見ることは極めて稀で、昔から、街を走っている人を見れば、スリか泥棒と思え、と言われている。朝の電車は2~3分間隔で発車するにも関わらず、乗り急ぐ人たちに首をかしげていた。「日本人、そんなに急いでどこへ行く」

一人歩きする子供たち:

街中で、制服にランドセルを背負った小さな子供が、一人で路線バスに乗り込み、慣れた素振りで定期券を車掌に見せて、また下車してゆく姿を、目を丸くして見ていた。治安の悪いブラジルでは先ず考えられないことで、学校には親が車で送り迎えするのが当たり前だからだ。

電車内のケイタイ電話:

電車に乗ると、ケイタイを手にして、黙々と操作している人たちが、とても多いことに驚いていた。ブラジルでは、携帯電話はその名の通り、話すために利用する人がほとんどだが、日本では電話機能が付いているケイタイ・パソコンといった感じで、もっぱらインターネットやメッセージの送受信に使っていて、話している人は極めて少ない、との印象を受けた。

ごみ箱が無いっ!

東京の街路にはゴミ一つ落ちていないことにまず驚いた。彼女はチリ紙を捨てようとゴミ箱を探したが、どこにも見当たらない。日本では、それぞれのゴミは、自分の家に持ち帰ることになっているので街にゴミ箱は無いのだ、と聞かされて、もう一度驚いた。「ウソっ、ブラジルでは考えられないっ!」

ゴルフの練習場:

東京の都心にある、3階建ての半円形のゴルフ打球場で、打席にずらりと並んだゴルファーたちが、黙々とただひたすら正面のネットに向かって、ボールを打っている姿には、かなり驚いたようだ。ゴルフを始めたばかりの彼女は、ボールを打ったら自動的に次のボールがティーアップされるメカニズム(ブラジルには無い)が、すっかり気にいって、暇があれば打球場に出向いて、時を忘れて練習をしていた。

日本製のゴルフクラブ:

ビギナーの彼女は、アメリカ製のクラブ(テーラーメイド)を購入して使っていた。平均身長175センチのアメリカ人女性用のクラブが、150センチそこそこの彼女にはイマイチ合っていなかったようで、日本で購入したブリジストン社製の女性用クラブを手にした途端に、飛距離も方向性も別人のように良くなった。「信じられないっ!」

食事:

とんかつ、すし、刺身、うな重、天ぷらなどが特に気に入ったようだ。特に刺身は(例えば鯛など)、ブラジルでは味わえない身の締まったシコシコ感に、(大西洋と太平洋の)「生息する海の違いかしら?」と首をかしげていた。

秋葉原:

秋葉原のヨドバシ・カメラに入った途端、溢れるように陳列された電気製品に圧倒されて目を丸くしていた。彼女は、1階から10階までの売り場を、精力的にくまなく歩きまわり、カメラ、パソコン、炊飯器、美容器具、化粧品などを買いまくった。特に気に入ったのは、ウオッシュレットで、結局3台購入し、わざわざカバンまで買って、ブラジルに持ち帰った。ブラジルにはまだ余り普及していないポイントカードのシステムが気に入ったようで、経営する自分の店舗に導入を決めたようだ。東京滞在中は、飽きもせず、毎日のようにヨドバシ・カメラに通っていた。

箱根で温泉を楽しむ

箱根で温泉を楽しむ

温泉:

箱根の日本的な自然の風景は、ブラジルの自然とは異なって情緒に溢れていると、滅法気に入ったようだ。初めて入った温泉がすっかり好きになり、病みつきになってしまった。九州一周旅行に参加して、別府、阿蘇、霧島温泉を歴訪したが、どこでも必ず朝晩湯に浸かって、温泉を心ゆくまで楽しんでいた。

新幹線から富士山を望む

新幹線から富士山を望む

新幹線:

正確な発車時間、スピード感、清潔な車内、目まぐるしく移り変わる風景など、驚きの連続のようだった。

店員の応対:

商売柄、お店の店員の応対に注目していたようだ。業種に関わらず、どんな店でも(おそらくマニュアル通りの)丁寧で質の高い対応には、感心しきりであった。

夜半の街:

何度か、夜遅くに街を歩くことがあったが、夜半に女性たちが一人歩きをしている姿を見て、ブラジルでは考えられないことなので、日本の治安の良さ(ブラジルの悪さ)を痛感したようだ。

ゼロ戦の前で

ゼロ戦の前で

鹿児島県、知覧:

特攻隊の基地があった場所を訪れ、博物館、戦没者と同じ数の灯籠、戦闘機を見て、感銘を受けたようだ。彼女の父親がもしブラジルに移住していなければ、年齢的に戦没者になっていた可能性が高いことに思いを巡らせ、考え深げだった。

原爆ドームの悲惨さに唖然とする

原爆ドームの悲惨さに唖然とする

広島:

原爆ドームのある平和公園を訪れ、(話に聞いていた)第二次世界大戦の悲惨さを、実感したようだ。

農村の風景:

バスで九州巡りをしたが、大都会とは余りにもかけ離れた、のどかな農村の風景に、同じ国とは思えない、と言って見入っていた。農家の裏庭に建っている墓石を見て(土葬が主流の)「ブラジルでは考えられない!」、と驚いていた。

日本人の閉鎖性:

バス・ツアーでは、4泊5日の間、20組の夫婦と行動を共にしたが、会話はそれぞれの夫婦間のみに限られ、他の夫婦とはほとんどしゃべることがないことを奇異に感じていた。というのも、もしブラジルなら、二日目には20組とも旧知の友人たちのように、お互いに会話が行き交い、話題が弾むのが普通だからだ。

駆け足で、日本の3分の2を見て回った旅の合間に、耳にした彼女のコメントを拾って列記した。彼女の訪日を今まで躊躇させていた、日本人の冷たさに出会うこともなく、帰路には父母の祖国を訪問できた満足感に浸っている彼女を見て、私も安堵した。(完)

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(92) ホタル

vagalume 2今日、久しぶりにホタルを見た。

グアルジャー島の自宅前から海浜まで200m余り続く草原に、それははかなげな光を放ちながら飛び交っていた。

去る4月、日本は始めての日系ブラジル人の連れ合いを伴って訪日した際、九州一周のパッケージ・ツアーに参加し、初めて南端の鹿児島にまで足を延ばした。そしてツアーの行程で、思いがけず、あの特攻隊の基地があった場所、知覧を訪れた。

基地跡に再建された、特攻隊員が出撃前の数日間、寝泊りしたという三角形の宿舎、復元された旧式戦闘機、それに彼らの遺留品を保管した博物館の存在は、訪れた人々に当時の様子を生々しく思い起こさせるのに充分で、さらに作戦で命を落とした隊員たちと同数あるという、1千200体余りのずらりと並んだ灯篭は、特攻隊が単なる語り草ではなく、まぎれもなく現実の、悲惨な出来事であったことを如実に物語っていた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAとりわけ特攻隊員の年令が、17才から22才の若者たちであったことに、私は強く胸をうたれた。というのは彼らと同じ年令で、ブラジルに一人で旅立った自分のことが、思い起こされたからだ。

出港前、神戸山麓にある移民収容所で数日間寝泊りした後、船に乗り込んだ18才の私には、遠い別世界に旅立てば、二度と祖国に戻れないかもしれず、見送ってくれた父母兄弟、友人、恋人とは今生の出会いは無いかもしれないという心の痛みと、未知の国に対する大きな不安があったが、それに勝る、どんなことがあっても生き抜こうという決意と、未来への希望があった。それに比べ、三角宿舎で数日間寝泊りした後、戦闘機に乗り込んで、死の世界に旅発った彼らの心境は、いかばかりのものであったろうか。

同伴した連れ合いはブラジル生まれの日系二世で、戦前に16才で家族とともにブラジルに移住した父親の年令を逆算すると、特攻隊員と同年代に当たることを知り、もし父の家族が移住せずに日本に留まっていたとすれば、父親は戦死していた可能性が高く、そうなると自分は存在しないことになるので、感慨深げであった。

私は、知覧の小さな売店の棚にあった「ホタル」というタイトルのDVDが目に留まり、思わず手を延ばした。ブラジルに戻ってから、高倉健主演のそのDVDを鑑賞したが、知覧の地を踏んできた直後だっただけに、涙が止まらなかった。そして今日、はかなげに草原を飛び交うホタルを見て、死に向かった一隊員が、ホタルになって基地に戻ってくるシーンを、再び感慨深く思い出していた。

映画で、生き残った特攻隊員を演じる高倉健が、レポーターの取材で語った「死んでいった者、生き残った者、どちらにとっても人生は決して生易しいものではない」というセリフは、「ブラジルに行った者、日本で生きた者、いづれの人生も決して生易しいものではない」と言っているように聞こえ、今回の訪日で再会した同窓生たちに、改めて深い親近感を覚えた。

さて、そのDVDを連れ合いに見せたところ、「極めて退屈だ」という。彼女は日本語が解るが、この映画のセリフは半分も理解できないという。従って映画の内容も半分位しか理解できないということで、特に感動した様子もなかった。そういわれてみれば「ホタル」は、戦争と敗戦という、日本人にしか理解できない背景があってこそ、セリフも内容も理解できる映画なのかも知れない。

彼女曰く、高倉健が演じる、いつもむっつりしていて、ポツリポツリしか話さない男性像は、ブラジルでいうと、亭主としては最も退屈なタイプだという。日本では伝統的に、同じタイプの亭主が絶対数では断然多いと思われるが、確かにブラジルには少ない(というか、ほとんど居ない)。初期の日本移民は、ほとんどの男性が同タイプだったと思われるが、移民の歴史が一世紀を経た今日、彼らの大部分は世を去り、世代が移って日系人も3世、4世の時代になると、日系男性たちの習性は一般のブラジル人たちとほとんど同じで、気持ちを態度だけでなく言葉で表現することが身についていて、女性に優しく、気配りすることを怠らない。

かくいう私も、今ではブラジルでは数少ない存在となった日本人男性であるが、過去に3回、結婚に失敗した原因は、ひょっとしてその辺にあるのかも知れない。

ブラジル生活が50年余にもなりながら、いつまでも「日本人亭主」を決め込んでいては進歩もなく、また連れ合いに見捨てられてはかなわないので、ブラジル人を見習って、せいぜい良きコミュニケーションを心がけ、女性に優しく、気配りを怠らないようにしようと思っている今日この頃である。  (完)

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(91)ブラジルの金髪女性が笑い話のネタに..

笑い話のネタ・金髪女性

笑い話のネタ・金髪女性

世界中のありとあらゆる人種が集まって形成されているブラジル社会は、いわゆる人種のルツボで、ブラジルに生を成せば、両親の国籍如何に関わらず、無条件でブラジル国籍が与えられるので、十人十色の肌、髪と目の色を持ち、千差万別の体型をした人たちが、皆同じ権利(と義務)を持ったブラジル人なのである。日本では、日本人といえば皆似かよった顔と体型をしていることが当たり前なので、ブラジルのこの現象は、日本の人たちにとっては少なからず奇異に感じられるかも知れない。

そんな国ブラジルは、人種はもとより、年令、性別、社会的地位、身体的特徴などに対して、いかなる差別をすることも、法律で厳格に禁止しており、違反者は禁固刑や罰金で、厳しく罰せられるので、建て前としては、人々はあからさまに差別を言動に表すことはない。しかし、一見、平和な国に見えるブラジルに、本当に差別がないかといえば、答えは「NO」で、折に触れてそれはチラチラと顔をだす。

loira gostosa Iその一例が、ブラジル人たちが好む「笑い話(ピアーダ)」で、ポルトガル人、日本人が格好の標的になって、よくネタにされるが、これはまぎれもなく一種の差別であろう。それと同じように「金髪女性」が笑い話のネタにされることが多いことは、外国では多分あまり知られていない。ただ、それを差別と目くじらをたてて、クレームをつけたり、訴えたりする人は皆無で、笑いとばしてしまうところが、ブラジル人らしいおおらかさの所以でもある。

ブラジルに在住する金髪は、ドイツ移民が多く入植した南部のリオ・グランデ・ド・スール州やサンタカタリーナ州に圧倒的に多いが、イタリア南部やロシアからの移民の子孫が多く住んでいる中央部のサンパウロ州やパラナ州にも結構多く見られる。パラナ州には、それ以外に、ポーランドやウクライナから移民が多く導入されたので、金髪のパーセンテージが高い。その他、東北部のペルナンブーコ州は、昔一時オランダによって占領されていた時期があったので、同州周辺にはその子孫の金髪が今でも多く見られる。それでも、全体的にはマイノリティーで、ブラジルでは、ラテン民族やアフリカ系、東洋系の黒髪を持つ人種が主流で、数的には圧倒的に多い。

そんな金髪女性たちが笑い話のネタにされる理由は定かではないが、ポルトガル人(鈍い)、日本人(ポ語が訛る)がターゲットになるように、黒髪が主流の社会で、頭の外見(髪の色)と同じように、中身も「薄い」という偏見からかも知れない。

金髪がネタになった「笑い話」の例をいくつか挙げてみよう。

loura I(その1)レストランで金髪女性がボーイを呼び、小声で耳打ちをした。

金髪「ねーボーイさん、オトイレはどちらかしら?」

ボーイ「反対側で…」

金髪女性はボーイの反対側の耳に口を寄せ「ねー、オトイレはどちらかしら?」

brasil_loura(その2)カウンセリングで精神科医が患者の金髪女性に訊ねた。

精神科医「あなた時々、誰からか、何処からなのか解らない声が耳に聞こえることがありませんか?」

金髪患者「はい、あります。」

精神科医「それはどんな時に?」

金髪患者「電話を受けた時です。」

loira-gostosa(その3)金髪の女性二人がショッピングセンターの駐車場で立ち話をしていた。すると突然一人が空を見上げてつぶやいた。

金髪A「あら見てごらん、真上の空にヘリコプターが止まったままでいるわ..」

金髪B「あっ、本当だ!もしかしてガス欠かしら?」
(その4)赤ん坊を抱えた金髪女性が薬局を訪れ、店員に小児用の体重計を使わせて欲しいと頼んだ。

Ana_Hickmann_(cropped)店員「あいにく、小児用は故障中ですが、大人用があるので、最初にママと赤ちゃんが一緒に乗って計り、次にママだけで計って、差を取れば赤ちゃんの体重がわかりますよ。」
金髪「それじゃー駄目だわ。」

店員「どうしてですか?」

金髪「だって私、この子のママでなく、叔母だから。」
(その5)二人の金髪美人が、夜の浜辺を散歩していた。

金髪A[ネーあなた、月と日本とどっちが遠いか知っている?]

金髪B「それは日本にきまっているわ。だって月は見えるけど、日本は見えないじゃない。」

loura japonesa統計によると、ブラジル国民の24%が、黒人またはその混血とされているが、金髪のパーセンテージは定かではない。それは、髪を染める人の数が多く、実数がつかめないからかも知れない。

ちなみに、ブラジルでは、勤勉で聡明ということになっている日系人女性が、髪の毛を金髪に染めているのにお目にかかることは先ず無い。理由は折角のポジティブな特徴を、台無しにしたくないからだ。

日本に行くと、頭を金髪に染めた若者たちをたくさん見かけるが、私には皆、なぜか間抜けに見えてしかたがない。                 (完)

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(90)ワールドカップの準備が進むブラジル

ゲーム開催予定のスタジアムの完成図

ゲーム開催予定のスタジアム完成図

2014年に自国で開催されるワールドカップに向かって、ブラジルは着々と準備を進めている。まずゲームが実施される12都市では、新たなスタジアムの建設が進行中で、その内8都市では既にほぼ完成、残りの4都市でも今年中に完成にこぎつける予定で工事が進められている。これに費やした経費は23億レアール(11,5億ドル)で、特筆されるのは全てのスタジアムが、エコロジーに配慮された造りになっていることだ。

世界中からブラジルを訪れる膨大なサッカーファンたちに対応するため、玄関口となる13ヶ所の空港の改造にも64億レアール(32億ドル)が計上され、既に8ヶ所における工事が完成間近で、その内サンパウロのヴィラコッポス空港は既に完成している。

急ピッチで工事が進むスタジアム

急ピッチで工事が進むスタジアム

また、最近急増している大型客船を利用してアクセスする観客にも配慮して、4ヶ所の港が、9億レアール(4,5億ドル)の予算で拡張または改造されており、本年末までに完成する予定となっている。

その他、新たなホテルの建設に刺激されて、建設業界全体が活況を呈しており、業界では従業員の不足が深刻で、ブラジル全体の失業率も2年前の6%から現在では4%に低下している。

参加する各国の代表チームが合宿する候補都市、51ヶ所がすでに公表されており、その中に、私が住むグアルジャー島と週の半分を過ごすモジ・ダス・クルーゼス市が含まれており、どの代表チームが合宿地として選択するか、興味深々である。特にモジ・ダス・クルーゼス市にある日系人が経営するパラダイス・リゾートホテルでは、日本代表チームに選択してもらえることを期待して、新たにサッカーフィールドを一面増設して、準備に万全を期している。

過去、ワールドカップ最多の優勝5回を誇るブラジルは、FIFAにおける世界ランキングでは、現在18位に低迷しており、2002年(日本・韓国開催)以来、優勝から遠ざかっていることもあって、サッカー王国と呼ばれる自国開催の威信にかけても、是が非でも6度目の優勝を勝ち取るべく、巻き返しの準備に余念がない。

フェリッペ新監督

フェリッペ新監督

開催までにわずか2年を残した今になって、2010年からナショナル・チームを率いてそこそこの成績を挙げてきたマノ・メネゼス監督を敢えて更迭し、ブラジルがワールドカップを最後に制した2002年の監督であったフェリッペ氏を起用するという大きな賭けに出たのは、その決意の表れであろう。

ブラジル・セレソンの選手層は大幅に若返り、過去にワールドカップを経験した選手で、代表候補に挙がっているのは、ロナルジーニョ・ガウーショとカカーの二人だけで(多分、この二人にチャンスはないだろう)、後は全て初体験の若手を中心に戦うべく、名伯楽フェリッペ監督の手腕が大いに期待されるところである。

ゲーム開催地分布図

ゲーム開催地、分布図

ブラジル全土に広がる12都市を使って開催される今回のワールドカップは、外国から訪れるサッカーファンたちが、お目当てのゲームを追っかけて移動する行程は、かなりハードになることは否めない。というのも、北端の都市マナウスから南端のポルト・アレグレ市までは直線距離で3千200キロ、西端のクイアバー市から東端のナタール市までは2千500キロの距離があるからだ。

日本代表チームは、ほぼ間違いなく出場権を獲得するであろうが、今回のワールドカップは、海外最大の日系人在住国(150万人)であるブラジル開催なので、これまでに日本が出場したどの国(日本を除く)に於ける大会よりも、こと応援に関しては盛り上がることは間違いないので、その活躍に大いに期待したい。              (完)

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(89) コリンチャンスと熱狂的なサポーターたち

コリンチャンスのシンボル・マーク

サポーター数が3千万人といわれる、ブラジル(サンパウロ州)随一の人気サッカー・チーム、コリンチャンスが去る7月11日に、2012年度の南米選手権(リベルタドール杯)で、アルゼンチンの強豪ボッカ・ジュニオールとの最終戦を熱戦の末に制し、奇しくもクラブ創設100年目にして念願の初優勝を遂げた。その結果、来る12月6日から日本で開催される、クラブチーム世界選手権(トヨタ・カップ)に初めて出場することになった。

コリンチャンスはリオ・デ・ジャネイロのフラメンゴFCと肩を並べるブラジル最大の人気チームであるが、一世紀の歴史を誇る名門であるにも関わらず、過去にリベルタドール杯を獲得したことはなかった。それでも、ブラジル選手権7回、サンパウロ州選手権26回の優勝を成し遂げてはいるが、こと南米選手権に関しては、毎年サンパウロFC、パルメイラスFC、サントスFCなどのチームの後塵を拝し、世界選手権に出場するチャンスをいつも逃していたので、他のチームのサポーターたちから「パスポートを持たない内弁慶」などと揶揄されていた。したがって今回の快挙は、熱狂的なサポーターたちが永年の屈辱から開放され、一気に溜飲を下げた、正に画期的な出来事であった。

優勝を決めた翌日は、平日(木曜日)であったが、大半のコリンチャンス・ファンたちは職場に姿を現さず、自宅で二日酔いで寝込んでいるか、もしくは、サンパウロのメイン大通り、パウリスタ・アヴェニューを交通閉鎖して埋め尽くした祝賀デモ行進に参加していたといわれているが、コリンチャンス・ファンの熱狂の度合いをよく理解している職場のオーナーたちや、朝のラッシュ時のデモで、通勤に支障をきたされたドライバーたちからも、ほとんど苦情は聞かれなかったという。

コリンチャンスFCの創設は、5名のサッカー好きの下層労働者たちのアイデアによるもので、なけなしの金を出し合って1910年にサッカーチームの母体らしきものを作ったのがキッカケで、その後、1912年にクラブチームとして登録された。クラブ名は、当時ブラジルに遠征してきた同名のイギリスのサッカーチームのプレーに魅了されたメンバーたちが、「コリント人」という意味の名前を拝借した形で命名されたという。そのせいか、現在も3千万人いるといわれるコリンチャンのサポーターは、下層階級の人たちが数的には断然多いが、中産・上流階級のサポーターの数も、実は少なくなく、その支持層は極めて幅が広い。同じサンパウロのチームでも、中産階級にファンが多いサンパウロFCや、イタリア系ブラジル人が支持層の中心になっているパルメイラスFCとは好対照である。

ブラジルのサッカーの試合は、水曜日と土曜日の夜に行われるが、サンパウロ市内でコリンチャンスの試合がある日は、夕刻になると、あちこちの街頭でチームカラーである白黒に彩られた大小のクラブ旗を立ち売りする人たちの姿が目立つ。それを買ったドライバーたちが、コリンチャンス・ファンであることを誇示するように、車窓から旗を突き出してたなびかせながら、夕方の街路を走行する光景は壮観である。試合が始まる10時ごろになると、サンパウロ市内を走行する車の数はめっきり少なく感じられるのは、コリンチャンスのサポーターたちがスタジアムに詰めかけているか、家でテレビにかじりついているせいだ。試合でコリンチャンスがゴールを決めると、サンパウロの街中、至るところで爆竹が空に放たれて鳴り響くので、どこにいてもゴールしたことが解る。ちなみに相手チームのゴールに対しては、遠慮がちにパチパチと上がるのみだ。

今、ブラジルでは国中が、2014年に開催されるワールド・カップの準備におおわらわである。ブラジルにおけるサッカーの中心地はといえば、リオとサンパウロが双璧である。リオには開会式が予定されているマラカナン・スタジアムというFIFAも認める立派な球技場があるのに比べ、一方のサンパウロにあるスタジアムは、どれもFIFAの規格に適応していないことがワールドカップ開催が決まった後になって判明し、あわてたサンパウロ州政府は、メンツにかけてもワールカップの主要ゲームを、サンパウロ市内で開催せんがために、急遽、規格にかなったスタジアムを建設することを決定した。

2014年ワールドカップの主要スタジアムになるコリンチャンス球技場

これに便乗したのがコリンチャンスである。元々同チームのホーム・グラウンドであるパルケ・ソンジョージは、収容人数が少ないために正式競技にはほとんど使われることがなく、大人数を収容できるホーム・グラウンドを所有することは、コリンチャンス・ファンたちの永年の夢で、将来のためにサンパウロ市の郊外、イタケーラ区に、そのための用地を確保していた。ワールカップ開催に伴い、サンパウロ州政府とコリンチャンスの思惑が一致し、政府が建設費の融資を仲介するかたちで、コリンチャンスのホーム・スタジアを建造することで話がまとまり、2011年の5月30日に着工の運びとなった。スタジアムの青写真によると、FIFAの規格に添った6万5千人収容の、サッカー王国ブラジルのメイン・スタジアムに相応しい近代的な球技場になる予定である。

白黒カラーのコリンチャンスのユニフォーム

「コリンチャーノ」と呼ばれるコリンチャンスのサポーターは、とにかく熱狂的で、ホームの試合ではスタジアムの90%は、白と黒のシャツで身を固めたコリンチャーノたちで埋め尽くされるのが通例で、アウエーの試合には場所の遠近に関係なく応援に出向き、スタンドの50%を白黒のコリンチャンス・カラーで色どらなければ気がすまないほどで、彼らのチームに対する愛情は生半可ではない。サンパウロ州内のどんな小さな町にも、繁華街やショッピングセンターにコリンチャンス・グッズの専門店があり、ユニフォームのレプリカを始め、キャップなどの応援グッズに加え、シンボルマークと白黒基調でデザインされた様々な日用雑貨品がズラリと並んでいる。それだけで商売になるのだから、コリンチャーノたちのチームに対する愛情とこだわりにはつくづく感心させられる。ちなみに日本で最も人気があるといわれている読売ジャイアンツのグッズ店が東京都内に数十軒あるとしたら、果して採算が取れるだろうか?答えはおそらく「ノー」だろう。

私が、たまたま白黒カラーのシャツを着て街でも歩こうものなら、あちこちから「オー、ジャポネース・コリンチアーノ!」と親しげな声がかかってくる。クラブのシンボルは鷹で、サポーターは別名「ガビオン・デ・フィエル(忠誠のタカ)」と呼ばれ、身も心もコリンチャンスに捧げ、忠誠を誓うのが真のコリンチャーノであるとされている。また親子代々、コリンチャンス・ファンであるという家族も少なくない。

12月に日本で開催されるクラブ選手権(トヨタカップ)にも、おそらく大勢のコリンチャンス・サポーターたちが、はるばるブラジルから遠征して白黒カラーで日本のスタンドを彩り、その熱狂振りを日本のサッカーファンたちに披露することになるだろう。(完)

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(87)ブラジルの温泉、熱き河 ”リオ・ケンテ”

見渡す限りの巨大な露天風呂

日本人が、「温泉」という言葉から受けるニュアンスは、都会から離れた場所にある静かで落ち着いた雰囲気のリゾート地にあり、浴場は大きくても小型の室内プール程度で、露天風呂になると、こじんまりとしていて、ひっそりと湯を湛えている、といった感じであろうか。

そんなイメージを持ちながら、友人夫婦に誘われるままに出かけたブラジルの温泉に、私はマジで度肝を抜かれた。

サンパウロ市からバンデイランテス高速道路を北上して450km走ると、牧畜と砂糖キビ栽培で潤っている大都市、サンパウロ州の北端にあるリベイロン・プレート市に到着する。そこからさらにアニャンゲーラ街道を北上すると、お隣のミナス州の一部が三角形に突き出している、通称「三角ミナス」と呼ばれる地域に至る。その辺りまでは農牧畜地帯なので、車窓から望める風景は、延々と続く緑の草原や砂糖キビ畑であるが、さらに200km程走ってミナス州を突っ切るとゴヤス州に突入し、景観は一変して緑の少ない山岳地帯になる。

ブラジル最大の温泉の町、「リオ・ケンテ」は、ゴヤス州内部をさらに150km程北西に進んだ場所にあって、サンパウロ市からだと、3州にまたがる高速道路を、トータルで800kmを走破して到着する。

チェックインを済ませ、早速ひと風呂浴びることにした。

日本の温泉なら、さしずめ素っ裸が当たり前であろうが、こちらは水着の着用が義務付けられている。既に何回も当地を訪れているという友人夫婦に案内され、水着にガウンをはおって、森の中を縫って続く石畳の小道を露天風呂へと向かった。既に夕刻であったが、気温は摂氏20度で、肌に快適だ。

森の中を300m程歩くと突然視界が開け、巨大な露天風呂が目に飛び込んできた。それも1つや2つでなく、6つもの、それぞれ直径30mはあろうかという大きな露天風呂が見渡す限り広がっているではないか。それぞれ水深は人の肩くらいで、水着をつけた男女たちが談笑しながら、あちこちで湯に浸かっている。それは、「温泉」のイメージとは程遠い、正に想像を絶する壮大な景観であった。

早速、湯に入ってみることにした。

恐る恐る足を入れてみると、意外と生ぬるい。水温は摂氏38度とのことである。水底は岩で覆われているので、滑らないように注意しながら、居心地の良さそうな片隅の窪みに身を沈めた。水はきれいに透き通っていて無臭だ。岩の隙間から湯が泡をたてながら湧き出しているのが見える。

ブラジル人たちは湯の中でひたすら談笑にふけり、日本の様にゆっくりと湯に浸かるという雰囲気ではない。日本に比べ、温度がずっと低いので、長時間湯の中で駄弁っていてものぼせないのがいい。

アデマールの穴

大きな露天風呂とは対照的に、直径1,5mほどの穴状の露天風呂が片隅に2つあるのが目にとまった。何でも、その穴は「アデマールの穴」と呼ばれているそうで、1970年代のサンパウロ州知事だった、アデマール・デ・バーロス氏が、週末になると愛人を伴って当地を訪れ、直径1,5m、深さ1,3mのコンパクトな露天風呂に、いつも2人で入って楽しんでいたことから、名付けられたという。そういわれてみると、どことなくセクシーな感じのする「穴」で、二人が残したぬくもりのせいでもないだろうが、ここだけ他の露天風呂より温度が高く、摂氏40度あるという。。

夕暮れ時になると、露天風呂の中央に設えられた円形のバーの周りに、人が集まり始める。カウンターを囲む腰掛けは、湯に覆われていて、座ると腰のあたりまで湯に浸かる。外から身体を温めながら、中から冷たいビールで冷やす、いう寸法だ。竜田揚げもどきの、川魚のフライをつまみながら、湯の中でかたむけるジョッキの味は格別で、至福ものだ。

熱き河「リオ・ケンテ」は1722年に、ポルトガルから派遣された探索隊(バンデイランテス)の一員、バルトロメウ・ブエノによって発見されたといわれている。歴史の供述によると、森に迷い込んだ彼の愛犬が、森の奥で急にキャンキャンと鳴きだした。駆けつけた探検家は、落ちた犬を助けようと流れる川に足を踏み入れたところ、熱湯であることを発見したのがきっかけだという。それから噂が広まり、国内外から観光客が当地を訪れるようになったという。

源泉から河に放出される湯の量は、一時間に623万リットルで、24時間の排出量は1,5億リットルに達するというから驚くべき水量である。水温は、源泉では摂氏42度であるが、一連の露天風呂に流れ込む頃には、少し下がって38度になるという。

2時間近くお湯に浸かり、ビールでほろ酔い気分になったところで夕食となる。食事は、バイキング形式で、豊富な野菜と果物に、牛、豚、鶏、川魚を素材にした田舎風の料理がテーブルに盛りだくさんに並んでいて、食べ放題だ。

ブラジルのほぼ中央に位置するゴヤス州は、1年の内、乾季と雨季がはっきりしており、4月から9月はほとんど雨が降らず、雨季となる10月から3月には、夕方になると決まってスコールが降り注ぐというパターンの気候である。一年を通じて晴れの日が多く、年間平均気温は摂氏23度で、リゾート地としては最高に恵まれているといえる。

波が押し寄せる人口の浜辺

翌日も快晴で、朝から敷地内にある「HOT PARK」と名付けられた、広大な娯楽施設を訪れた。こちらの露天風呂は、風呂というよりむしろ露天プールという表現が当っている位、さらに規模が大きく、直径100mくらいは優にある自然プールがあちこちに設けられている。圧巻は、「セラード・海岸」と呼ばれる人口の浜辺で、幅200mはあろうかという砂浜に、6基の航空機のジェットタービンを作動させて起こした波が打ち寄せるというもので、正に海辺そのものだ。これが全て水ではなく、38度の「お湯」なのには、恐れいる。

その他、ホット・パークには、様々な子供用の娯楽・遊戯設備があって、子供連れの家族を飽きさせない。

露天風呂(というかプール)には、どれも湯の中にバーがあって、朝から生ビールのジョッキをかたむけている人たちが群がっていて、小原庄助さんよろしく、朝湯・朝酒を楽しんでいる。私も10時頃から飲み始め、数杯目のジョッキで尿意を覚え、トイレを探して駆け込んだが、あれだけ多くの人たちが大量にビールを胃に流し込んでいるにもかかわらず、意外にもトイレがガランとしていることが、とても不思議に思えた。もしかして、そのままプールに....??

高さ3mの穴から落ちる湯は、全身マッサージに最適

ちなみに、午前1時になると全露天風呂の水門が解放され、湯が一気に放出されて、新たな湯に入れ替えられるそうである。それを聞いてからは、朝6時に起きて、一番湯に入ることにした。特に、早朝に3mの落差のある穴から落ちる湯の滝に打たれると、下手なマッサージ師にかかるより、肩コリに効果的で、スッキリして一日に臨める。

温泉の効果については、特に記述がないが、4泊5日の間、気のせいか、いつもより身体に精気がみなぎってくるような気がして、心ゆくまでパートナーと夜を楽しんだ。 ひんぱんに訪れていたという、アデマール前州知事も、そんな効用を知っていたのかも知れない。  (完)

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