(106) 歴史は繰り返される

つい最近の話である。私は今まで知らなかった初期の日本人移民に関わるある事実を、偶然知ることになった。

最初の日本人移民781名が、笠戸丸でブラジルに到着する1908年に先立って、前年の1907年に、ブラジルへの移民送り出しを計画していた、日本の新興移民会社・皇国植民合資会社の業務担当員であった水野龍が、事前調査のためにブラジルを訪れた。水野は、チリーに渡航する予定で同船していた鈴木貞次郎(当時27才)を説得して、ブラジルに同行せしめ、後の日本人移民のためのシミレーションとなる現実の労働体験をさせるために、彼をコーヒー農場に置き去りにして帰国した。農場で様々な体験をした鈴木貞次郎は、その後一年に亘って、それを逐次水野に報告する任務を果たした。

私が知るに至った事実とは、最近、偶然読む機会があった、鈴木貞次郎が残した“椰子の葉風”というエッセイ集に、彼が体験したコーヒー農場に於ける過酷な労働の実態と給料システム以外に、健康を損なう害虫や毒蛇の話、それにマラリアなど風土病に関する注意事項などが記されていたことである。 翌1908年1月に再びブラジルを訪れた水野龍は、サンパウロ州政府と、日本人移民の受け入れに関して合意するに至り、同年6月に第一回の移民がブラジルに上陸する運びとなった。 問題は、第一回移民を含め、初期の移民たちには、鈴木貞次郎がレポートした筈の、ブラジルのコーヒー農場における過酷な労働の実態、給料システム、風土病などに関する情報が伝えられた様子はなく、移民募集に当たって、“金の成るコーヒー樹” や “一攫千金“など、移民の興味を煽る内容のみに終始していたことである。その理由として、移民会社の最大の目的は、”移民を送りだすこと“であって、その後の移民の現地における ”安全“、”成功“、”幸せ“ などは、考慮の対象ではなかったのではなかろうかということが、勘ぐられてならない。

移民会社は、”会社“ である以上、営利を目的にするのは当然であるが、その営利とは、”移民を一人送り出してナンボ“ であったことが想像される。その ”ナンボ“ は、何処の、誰から、 いくら、提供されていたかということは、どこにも記録がなく、永遠に明かされることのない裏の話なのであろう。その結果、移民たちはブラジルで、思いもよらなかった厳しい現実に遭遇して戸惑い、悲劇さえ生むことになる。ちなみに、ブラジルに渡った日本人移民は戦前戦後を通じて32万人を数える。

そんな歴史が、ほぼ一世紀を経た1990年に、再び繰り返されることになろうとは、誰が予測したであろうか?

1990年、当時、バブル景気の最盛期にあった日本は、ほとんどの製造業において生産が追い付かず、人手不足に窮していた。それを補うためには、外国人労働者の受け入れが急務であったが、安易に門戸を開放すれば、世界中からあらゆる人種の労働者が押し寄せて収拾がつかなくなる。そこで、政府が目を付けたのは、海外に在住する日系人だ。日系人なら職場でも違和感が少ない。そして、世界で最も外国人にガードが固いといわれる日本の入国管理法が改訂され、外国人であっても、3世までの日系人であれば、日本で正規に就労できることになった。

それを受けて、人手不足に悩んでいた企業は、こぞって日系人の採用に名乗りをあげた。海外で日系人が最も多く在住している国といえば、ブラジルである。現地の日系新聞は連日のように、2~3ページが求人広告でビッシリ埋められた。それらの広告には、業種や職種についての詳しい記載はなかったが、“工場勤務で月収2千ドル”と記されていた。当時、ブラジルでは大卒の初任給が500ドル程度だったので、日本での就労は、日系人たちにとって充分に魅力的であった。「給料の半分が貯蓄できたとして、一年で1万2千ドル、3年働けばOOドルが貯まる」そんな単純計算をした日系人たちは、アパートを買う、農地を拡大する、店を持つ、大学の学資にする、借金を返済する、などなど、それぞれの夢を抱いて、雪崩をうつように日本へ向かった。いわゆる“出稼ぎブーム”の到来である。

さて、日系人が就労するまでのプロセスであるが、求人広告だけで、日本の企業と日系人たちをドッキングさせることは不可能で、日系人との面接、日本への送り出し業務を行う、ブラジル在住の代理人の存在が不可欠である。それに適していたのは旅行会社であったが、それ以上に適任者だったのは、日系人社会で顔の広い立場(要職)にある人たちであった。そんな人たちが代理人を引き受けて、日系人の送り出しに手を染めた。一世紀前の、移民会社にあたる存在である。そして“先ず送り出しありき”の歴史が、再び繰り返されることになるのである。

代理人たちは、手当たり次第に日系人と面接して、日本企業に送り込んだ。その際、はたして“工場勤務で月収2千ドル”以外に、仕事の内容、宿舎などについて、詳しい情報が提供されたであろうか?甚だ疑問である。というのは、代理人たちは、一人送り出す毎に自らの懐が潤ったのである。その相場は、一人当たり10万円(1千ドル)だったといわれている。就労を躊躇させるようなネガティブな情報は、知っていても提供が控えられたであろうことは想像に難くない。例えば、ブラジルで最も日系人が多い町の一つ、モジ・ダス・クルーゼス市から5万人の日系人が、複数の代理人を通じて、日本に送り出された。それらの代理人の手に渡った“送り出し手数料”は、実に5億円にものぼるが、それは何処にも記録が残らない裏の話である。

日本に着いた日系人たちは、先ずその仕事の内容に驚いた。それらは通称“3K”と呼ばれる“汚い・キツい・危険”な仕事ばかりであったからだ。次に宿舎のクオリティーに落胆する。六畳一間に4~5人を詰込む所などはザラであった。というのは、それまでの日本では、外国人に対して就労ビザは発給されなかったが、モグリで不法就労していた外国人たちが多くいた。彼らは、不法という弱みがあったので、劣悪な条件による雇用に甘んじていた。雇用する企業側では「外国人労働者は劣悪な条件でも大丈夫」ということが、いわば常識化しており、日系人たちは不法就労ではなかったにも関わらず、その悪習のトバッチリを受けたのである。日系人たちにとって、唯一の救いは、約束の月収2千ドルが、一部の例外を除いて、企業に遵守されたことである。

こうして、出稼ぎとして日本に渡った日系人の総数は35万人と言われており、奇しくもブラジルに渡った日本人移民の数とほぼ同じである。いづれの場合も、移住者たちは数々の苦難を乗り越え、目的を達成して帰国した人たちもいれば、そのまま永住した人たちもいる。

私が述べたいのは、歴史が繰り返されたことに興味を覚えたということであって、移住の仲介人を弾劾することでは、決してない。何故なら、彼らの存在なくしては、移民も出稼ぎも存在しなかった訳で、ひいては私という人間の移民人生をも否定することにもなるからだ。(完)

mshoji について

兵庫県神戸市出身。1960年、県立神戸高校卒業後にブラジルに単身移住。サンパウロ・マッケンジー大学経営学部中退。貿易商社、百貨店でサラリーマンを経験後に独立。保険代理店、旅行社、和食レストランの経営を経て、現在は出版社を経営。ブラジル・サンパウロ州サントス沖グアルジャー島在住。趣味:ゴルフ、乗馬、社交ダンス、カラオケ、読書、料理。twitter:@marcosshoji
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