(65)韓国人のゴルフ友達

韓国人のゴルフ友達、シン君の誕生日の夕食会に招かれて行ったところ、思いがけなく、ブラジルで知り合った最初の韓国人、ホングさんと45年振りに出会った。ホングさんとシン君とは45年来の親友だという。

カセットテープレコーダーを車に装填可能な機種として販売した

当時、私が就職していた貿易商社では、松下電器のカセット・テープレコーダーを輸入販売していたが、その内の一つ、弁当箱型の機種を、車に取付け可能なタイプとして売り出すことを企画した。そのためには、12ボルトの電源アダプターを現地調達してオプション販売する必要があった。そのアダプターの発注先がホングさんだった。

ホングさんは、1963年に最初の韓国人移民としてブラジルに到着した103人の内の一人で、その頃、20才前後の青年だった筈だ。そんな若者が、小規模ながら、既に電子部品関係の企業を興し、製品を我社に納めていたのだ。会社に何度も足を運び、対応に一生懸命だったホングさんの姿が脳裏に甦った。今では小太りで貫録のある、余裕の熟年になっている。

思いがけない再会に、ホングさんはやや興奮気味に、あれからの45年の人生を流暢なポルトガル語(私よりずっと上手)で語ってくれた。

それは正に、七転び八起きの人生だったという。電子部品工場を倒産させて無一文になった後に、手掛けた衣料品店の経営が大当たりして資本を造り、韓国製の車の輸入販売会社を立ち上げたが、本国のメーカーが倒産したとばっちりを受けて破綻し、今度は無一文どころか、数億ドルの借金を抱えてしまったという。

その後、複数の韓国人経営の衣料品販売店による共同出資で、衣料品専門のショッピングセンター建設を企画して成功させ、借金も完済し、今ではその管理会社のオーナーに収まっているという。

一言で浮き沈みの人生といっても、ホングさんのケースは、投資金額も、倒産額も数億ドル単位で、それを乗り越えたスケールの大きさは、日本人移民には余り見られないもので、韓国人の旺盛なバイタリティーには少なからず感銘を受けた。

バイタリティーに富んだ人生といえば、ゴルフの親友、シン君も人後に落ちない。私より3才年下の彼は、韓国人コミュニティー屈指の名ゴルファーで、シニア・トーナメントで、共に優勝を競う良きライバルである。

シンとの親交は、ちょっとしたイサカイがきっかけだった。

彼とは、それまでトーナメントで、同組でプレーすることが何回かあったが、お互いに何故か、挨拶程度しか言葉を交わしたことがなかった。

そんなある日、パラナ州で開催されたシニア・トーナメントの第一日目のプレー終了後、偶然ロッカーが隣同士になった更衣室で、彼が

「スコアー、どうだった?」

と訊いてきた。普通、スコアーの結果を訊いてくる時は、本人のスコアーが良かった場合が多い。実は、その日の私は、18番でOBを叩いてスコアーを落とし、その後遺症で虫の居所が悪かった。丁度そんな時に声を掛けられたので、思わず

「人のスコアーに干渉しないでくれ!」 と、ぶっきらぼーに答えたのだ。一瞬、彼の表情が変わった。

「ヤバイッ!」と思って思わず身構えたが、次の瞬間には、彼の目から怒りがフッと消えた。きっとゴルファーとしての理性が、瞬時の怒りに勝ったのであろう。

その大会で、シンは通算1アンダーという、アマチュアのシニア・トーナメントでは、稀に見る好スコアーで、優勝を飾った。

祝福の手を差し伸べた私に、彼はウインクをして答えた。私は、そのアイ・コンタクトから「更衣室での無礼を水に流す」というメッセージを受け取った(気がした)。

後日、彼はその日のことについて、私にコメントした。

「ショージ、あの日の更衣室での君の態度には、正直、カッとして手が出そうになったよ。」

すんでの所で理性が勝った彼は、その忍耐力を翌日のプレーに反映させて、キレそうになった数回のピンチを見事に切り抜けて、勝利をモノにしたという。

そのコメントに私は、自らの至らなさを反省するとともに、すっかり彼のことが好きになってしまった。シンとはそれ以来、親しく付き合っている。

シンは、韓国人コミュニティーにおける成功者の一人だ。

ブラジルの韓国人は、衣料品のメーカーや製造販売店を経営している人たちが圧倒的に多いが(参照:「63」「64」恐るべし、ブラジルのコリアンパワー)、シンは、衣料の縫製には欠かせないボタン、ホック、チャック、レースなどの小物を大々的に輸入、製造、卸販売をしている会社を経営している。サンパウロ以外にも、リオ、パラナ、ゴヤス、セアラー州に4支店を設け、ブラジル全土の衣料品メーカーに商品を提供している。

サンパウロの高級住宅地、イジェノーポリス区の、緑が豊かなアグア・ブランカ公園を見下ろす、最高のロケーションにある200平米の超高級マンションに住み、グアラピランガ・ゴルフ・カントリークラブの数少ない韓国人会員の一人である。

彼とは、遠方で開催されるシニア・トーナメントに同じ車で遠征することが多いが、旅のつれづれにCDを聴いたり、よもやま話をしたりして過ごす。ちなみに会話は全てポルトガル語だ。

彼が車にセットしているCDのコレクションは60/70年代のアメリカのポップ・ミュージックやカントリー・ソングが多く、その好みは実に私とよく似ている。時々一緒に行くカラオケでの選曲も共通するものが多い。同世代とはいえ、全然違う国で生れ育った二人の趣味や処生観が、これ程よく似ているのは何とも不思議な気がする。

彼は家族と共に1965年に19才で、ブラジルに移住してきた。父親は元軍人で、持参して来た資金でゴヤス州の農村に土地を買って農業に挑んだが失敗し、サンパウロ市内に一家で移転してきた。その後シンは、いくばくかのドル紙幣を懐にして、一人でヨーロッパに武者修行に出かけた。

4年余り、フランス、イタリア、スペイン、ドイツを転々とし、レストランでウエイターや皿洗いをして生活費をかせぎ、異文化の国々で一人で生きるという貴重な体験をした後に韓国に戻った。

彼は高校時代、野球部で将来を嘱望されたピッチャーだったという。

ある試合で、シンは1死2・3塁のピンチにリリーフでマウンドに上がった。相手の打線はクリーンアップだ。監督のサインは敬遠だったが、彼はそれを無視して真っ向勝負を挑んだ。

結果は三振と一塁ゴロでピンチを切り抜けたが、ベンチに帰った彼を待ち受けていたのは、監督の叱責だった。スコアブックで監督に頭をしたたか殴られたシンは、すっかり切れて、グラブを床に叩きつけて、そのまま退部してしまったという。

ヨーロッパの武者修行から戻り、地元で評判の美人を妻にしたシンは、親戚を頼って渡米した。

ロス・アンジェルスに腰を落ち着けた彼は、親戚の仕事を手伝いながらゴルフの練習所に通った。178センチ80キロと体格にも恵まれ、運動神経抜群の彼は、見る見るうちに腕を挙げ、2年後にはローカルプレーヤーたちと、賭けゴルフをするようになった。そしてゴルフを通じて、彼は賭けごとやギャンブルには滅法強い、自分の素質を発見したという。

間もなく子供が生まれ、賭けゴルフによる臨時収入は、大いに家計の助けになったという。

その頃、ブラジルでは韓国人移住者たちの衣料品業界における活躍が顕著になっていた。

それを伝え聞いたシンは、奥さんがファッション関係の仕事をしていたこともあって、自らもブラジルの衣料品業界に参入すべく、北米を引き揚げて、家族でブラジルに再渡航して来た。

ブラジルでの生活は、北米から衣料品を持ち込み、バスで地方都市を歴訪し、訪問販売で売りさばくことからスタートした。しかし韓国人コミュニティーには、既にその過程を卒業し、衣料品の製造販売を手掛けている人たちが多くいた。彼は明らかに後発であった。

そんなある日、地方に向かう長距離バスの中で、シンは、完成品の販売ではなく、衣料品の製造には欠かせない小物類(ボタン、ホック、チャック、レース)などを供給する商売に商機があることに気付いた。そして早速、その実現に向かって準備を始めた。

しかし、その道は決して安易ではなかった。輸入に頼らざるを得ない仕入れには多大な資金を要した。友人に頭を下げて、借金の申し入れをしたことも数えきれない程あったという。

そして今日、8000種に及ぶアイテムと、数億ドルにものぼる潤沢な在庫を保持し、全国に4店を展開する、業界最大手の卸業者にまで登りつめた。

小物の卸売りだけでなく、染色工場と衣料品製造も手掛けるようになって、一躍韓国コミュニティーではトップクラスの成功者となった。3人の息子たちはいずれも一流大学を卒業し、3部門の責任者として家業を継いでいる。

そんな繁栄の絶頂にあったシンに、突然冷水を浴びせかけるような出来事が起こった。

健康診断で、昂進した糖尿病に侵されていることが判明したのだ。

80キロ近くあった体重は、次第に減って70キロ台になり、体力の減退を感じ始めた彼は、残りの人生を太く短く生きることを決意し、その旨を家族に宣言したという。

元々飲む、打つ、買うの3拍子揃ったプレイボーイ且つボヘミアンであったシンは、医者に止められた煙草を一向に手放さず、ナイトクラブやカラオケで酒を飲み、夜明けまでカード・ゲームに興ずる生活パターンを、決して改めようとはしなかった。

一年に数回、シンはブラジルからフラッと姿を消すことがある。そんな時は、ラス・ベガスに出向き、豪快にギャンブルを楽しんでいたりする。そんな場合、一人ではないことは想像に難くない。

偉丈夫でハンサムなシンは、女性によくモテる。彼が語る女性遍歴は実に多彩だ。

ピアニスト、スチュアーデス、秘書、有閑マダム、バーのママ、取引先の令嬢など、人種にこだわらず(黒人だけは苦手のようだ)手当たり次第に、チャンスがあれば必ずクドいてモノにする。

彼は今でも、新たな美女たちとの出会いに備えて、イザとなれば即時に身体が反応する、韓国特製の媚薬を常備している(私も試してみたが、実によく効く)。

ブラジル・シニアゴルフで三国間バトルを展開する(左から)ショージ(日本)シン(韓国)ロナルド(米国)とその妻たち

そんなシンは、ゴルフ・シーズンになるとブラジルに舞い戻り、シニア・トーナメントにエントリーしてくる。

数年前までの、300ヤード近いドライバーショットこそ影を潜め、230ヤードそこそこに距離は落ちたとはいえ、長年培ったショートゲームは衰えを見せず、今でも70台のスコアーでトーナメントでは相変わらず優勝に絡んでくる。トーナメントの度に、米国人のロナルド、韓国人のシン、日本人の私は、熾烈な3国間バトルを展開する。

糖尿病を持つ身体のつらさは、本人だけにしか解らないものなので、他人がとやかく言える問題ではないが、シンの開き直った豪快な生き方には、男として共鳴するところがあるとはいうものの、友人としてはとても賛同できるものではないので、時にはヤンワリと節制を勧めるが、シンは笑って取り合おうとしない。

韓国人は、一般的に自己顕示欲が強いが、シンも例外ではなく、弱みを一切見せることなく、徹底して発言は強気である。

そんな彼も、時にはしんみりと、殊勝な発言をすることがある。それは、奥さんのエレナさんに関してだ。

「自分の人生で、最大のラッキーな出来事は、エレナに出会ったことだ。」

シンが絶賛する韓国女性

破天荒な行状に明け暮れる、シンがしみじみ語る韓国女性のすばらしさとは一体どのようなものなのであろうか。私にとっては、極めて興味のあるところだ。

私は、自分の身近で、シンのように豪快に人生を生きる人間を他に知らない。彼を見るにつけ、韓国人のバイタリティーの旺盛さには、つくづく感心させられる。  (完)

mshoji について

兵庫県神戸市出身。1960年、県立神戸高校卒業後にブラジルに単身移住。サンパウロ・マッケンジー大学経営学部中退。貿易商社、百貨店でサラリーマンを経験後に独立。保険代理店、旅行社、和食レストランの経営を経て、現在は出版社を経営。ブラジル・サンパウロ州サントス沖グアルジャー島在住。趣味:ゴルフ、乗馬、社交ダンス、カラオケ、読書、料理。twitter:@marcosshoji
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(65)韓国人のゴルフ友達 への5件のフィードバック

  1. MARQUIS より:

    衣料メーカーが韓国人ですか、中国人かと思いました、そこの労働者は中国人ですか?衣料品は国内産が多いのですか?中級品ですか?

  2. MARQUIS より:

    韓国製の媚薬を私にも分けて下さい。

    • mshoji より:

      韓国人の友人曰く、北米の俳優、歌手、事業家、政治家など、高所得・超多忙な有名人たちは、こぞって愛用しているそうです。バイアグラのように、食前(?)の服用では無く、週に2日一錠ずつ、日常的に服用するそうで、平時はおとなしくしているモノが、ひとたび対象が現れると、ただちに”ビックン”と反応するそうです。但し、超高価とのこと..

  3. shoji6 より:

    次回訪伯のとき用にCoreagraの確保お願いします、Marquisさんのようにこちらではよう使い切りませんので・・・Marquisさん失礼しました。

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