(63)恐るべし、ブラジルのコリアン・パワー I

週末になると韓国人ゴルファーたちで賑わうパラダイスリゾート

土曜日の早朝7時、パラダイス・ゴルフ・リゾートの凱旋門を模したメインゲートを、最新型の高級車が続々と通過する。ゴルフ・コースに沿って大きく迂回しながら続くアスファルトの道をたどって車が向かう先は、クラブ・ハウスに隣接した駐車場だ。
ズラリと並んで停められた黒や銀色の高級車から、次々と東洋人たちが降りてくる。声高に話す言葉はポルトガル語でも日本語でもない。彼ら(というか、女性もかなりいる)は韓国人たちだ。

パラダイス・リゾートはサンパウロから東に90キロ、モジ・ダス・クルーゼス市にある日本人経営の高級リゾートホテルだ。(参照:「10」一夜明けたら億万長者)
ゴルフ場は会員制でなくビジター中心の営業方針を採択しているので、ゴルファーたちは、全てグリーン・フィー(1万3千円)を支払ってプレーする人たちである。
ちなみにブラジルのゴルフ場はほとんどが会員制で、ビジターを歓迎しないクラブが多い。またクラブの会員になるためには、メンバー全員の承諾が必要で、一人でも反対者が出ると会員にはなれない。ブラジルは人種差別がない国の筈なのに、何故か由緒あるスポーツ・クラブなどでは東洋系人種の入会に対する審査は極めて厳しい。特に韓国系の人たちをメンバーに受け入れるゴルフ・クラブは、ほとんどないといっても過言ではない。
パラダイス・リゾートにビジターとして韓国人ゴルファーたちが多数集まるのは、そんな事情もあるからだが、彼らは、土、日曜日を合わせると約250名が訪れ、平日でも50人は下らないという。

さて、ゴルフはさておいても、韓国人たちほぼ全員が、揃いもそろって最新型の高級車でゴルフ場に乗りつけるという事実は、注目に値する。一見裕福そうに見える彼らは一体、何をしている人たちなのであろうか。

ブラジルに最初の韓国人が到着したのは1953年で、朝鮮戦争で北朝鮮側から戦犯として拘束された人たちが中立国への亡命を許可され、それをブラジルが受け入れた経緯があって、約50名が上陸しているが、彼らの足跡は歴史に残されていない。年令的に日本語ができる人たちだったようで、日系社会に紛れ込んで生活していたのではなかろうかと推測されている。

正式に韓国人が移民としてブラジルに到着したのは1963年(最初の日本人移民は1908年)で、105名が農業移民としてサントス港に上陸した。韓国人がブラジルに移住するきっかけとなったのは、1961年に勃発した軍事革命で、軍部が支配した新政府が、ブラジルに移民の受け入れを要請して受諾されたことに始まる。移民としてやってきたのは、革命反対派だった人たちが主で、韓国では肩身の狭い立場になった元軍人とその家族が大半を占めていた。
こうしてブラジルが移民の受け入れを廃止する1965年までに、約500家族が上陸した。彼らはそれぞれが、かなりまとまった資金を持ってブラジルに到着し、主にサンパウロ州とエスピリット・サント州の農村で土地を購入、あるいは借地を確保して農業に従事することからブラジルでの生活をスタートした。
ところが、大部分は農業の経験がなかったことと、購入した土地が農業には不適当だったことなどが重なって、ほとんどの人たちが1年足らずで農業を放棄し、都会に生活の活路を見出すべく、サンパウロ市へと移動していった。

西も東も解らないサンパウロ市にやってきた最初の家族が、住むためにやっとの思いで見つけた家屋は、たまたまブラス区という、ダウンタウンから東部に少し外れた地域で、衣料品を扱う専門店が集中している場所であった。
それが呼び水になって、地方からサンパウロ市にやってくる韓国人家族たちは、続々とブラス区と隣接したボン・ヘチーロ区に集まって住むようになった。
その地区が衣料品に関わりの深い場所であったことが、韓国人たちが都会の生活に活路を見出す決定的なヒントになった。

衣料品を求める人たちでごったがえす、ボン・ヘチーロ区のジョゼー・パウリーノ通り

彼らは同地域に軒並みにある衣料品店で販売されている衣類、特に女性用は、韓国製のものに比べて、センスも品質も数段見劣りがする上に、割高であることに目を付け、本国から取り寄せて販売することを思い立った。しかし正式輸入すると関税がかかってしまうのでうま味はない。そこで家族が交代で韓国に帰国し、各々が衣料品を鞄に詰められるだけ詰めてブラジルに持ちかえり、訪問販売をして売りさばくことを試みた。
持ちかえった女性用の衣類は、たちまち飛ぶように売れた。それに勇気を得た彼らは、本国から持ち込んだ品物を模倣して、同じものをブラジルで製造、販売することを思いついた。

このアイデアは、奥さん連中の着眼によるものであったという。というのも、韓国の女性は家庭で母親から料理と裁縫を徹底的に教え込まれるので、女性にとって裁縫は特技の一つであり、韓国製を模倣した衣料品を縫製することは、さほど難しいことではないと考えたのだ。

ブラス区とボン・ヘチーロ区にある家屋は古い物件が多く、家は比較的大きくて、地下室もしくは裏庭に離れがついているものが多かった。主婦を中心に、各家庭で始まった縫製作業は、その内、地下室や離れを活用した小工場に発展していった。
ミシンを踏む作業員は、全員家族なので、稼働時間に制限はない。一日18時間労働は当たり前で、彼らは寝食の時間を惜しんで縫製作業に取り組んだという。

外見は住居にしか見えない隠れた工場で生産される衣料品に工業物品税が課税されることはなく、営業は相変わらず家庭訪問が中心の無店舗販売なので流通税も免れる。
こうして造りだされた良質で安価な女性用衣料品は、たちまち評判を呼び、ブラジル全土で飛ぶように売れた。
その内、家族だけの人手では足りなくなり、ブラジル北部の貧困地帯からサンパウロにやってくる内国移民を作業員に雇用し始めた。彼らなら労働基準法にこだわらず低賃金で雇用できるからだ。

ブラス区とボン・ヘチーロ区で古くから衣料品店を経営していたのは、ユダヤ系とトルコ系がほとんどであったが、韓国人たちによるアグレッシブな衣料品の製造販売のとばっちりを受けて、経営に支障をきたす店が出始めた。

韓国人経営の衣料品店

そんな店を、待ってましたとばかりに韓国人たちが次々に買収した。
彼らが買収した両隣の店が、経営不振に陥るのは時間の問題であった。このようにして、ブラス区とボン・ヘチーロ区には、一軒また一軒と韓国人経営の衣料品店が増えていった。

情報はたちまち本国に伝わり、ブラジルにおける商業チャンスに便乗すべく、新たな移住希望者たちが続々と名乗りを上げ始めた。
彼らは、初期移民たちより大きな資金を用意していた。しかし問題が一つあった。それは、ブラジル政府が移民の受け入れを廃止していたことだ。
そこで、彼らは未だ移民を受け入れていた隣国のパラグアイ、ボリビアに先ず入国し、国境を越えてブラジルに入国するルートを選択した。ブラジルで定期的に行われる、不法滞在者に与えられる恩赦を当てにした越境だ。
そして多くの韓国人たちが恩赦によって永住ビザを獲得し、恩赦が得られない人たちは裏金を使ってビザを手に入れたという。

このようにして、ブラジルにおける韓国人コミュニティーは、今日5万人を数えるに至った。 (続)

mshoji について

兵庫県神戸市出身。1960年、県立神戸高校卒業後にブラジルに単身移住。サンパウロ・マッケンジー大学経営学部中退。貿易商社、百貨店でサラリーマンを経験後に独立。保険代理店、旅行社、和食レストランの経営を経て、現在は出版社を経営。ブラジル・サンパウロ州サントス沖グアルジャー島在住。趣味:ゴルフ、乗馬、社交ダンス、カラオケ、読書、料理。twitter:@marcosshoji
カテゴリー: その他、色々 パーマリンク

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