(62)あっ!パターが無い!

サンパウロ州の地方都市で3番目に大きいリベイロン・プレート市

最終組。3打差で首位、フォーサムのオナーは私だ。
一番ホールはなだらかな登りで、332ヤードの左ドッグレッグ。ショートカットを狙うとOBラインが待ち受け、少し右に開くとブッシュに飛び込むトリッキーなホールだ。
いつものルーティングで、ボールの後方からフェアーウエイに目をやり、方向を確認する。あとは、アドレス、集中、バックスイングと、習慣どうりの一連の流れに従ってショットする。
抑え気味に打たれたドライバーショットはフェアーウエイを捕えて大きく弾み、センターからやや右寄りに転がって止まった。
「ナイスショット」とキャディーの声。
後の3名も次々とナイスショットを放つ。

2011年度ブラジル・シニアゴルフ・チャンピオンシップ第2戦、サンパウロから北へ336キロの地点にあるリベイロン・プレート市の、イペー・ゴルフクラブにおけるオープン・トーナメントの最終日だ。

リベイロン・プレート・オープンでは、私は過去2回スクラッチ部門で勝利を収めており、特に2005年に、シニア・トーナメント初優勝を飾ったイペー・ゴルフクラブは思い出のコースだ(参照:「11」ゴルフにまつわる悲喜こもごも)。
また、リベイロン・プレートは、1908年6月18日、笠戸丸でブラジルに到着した第一回日本人移民781名の内、最も多くの家族がコーヒー農園に配属された地域で、ブラジルにおける日本人移民史上、重要な意味をもつ場所でもある。

もともとこの地方は牧畜が主体であったが、19世紀の中頃からコーヒーの栽培が主流になり、1929年の北米に端を発した大恐慌に伴って生じたコーヒー価格の暴落に至るまでの間、コーヒーは農場経営者たちに巨額の富をもたらした。
コーヒー栽培に要する人手は、アフリカから導入された黒人奴隷に委ねられていたが、1888年の奴隷解放令の発令に一年前倒しで、リベイロン・プレート市議会は奴隷解放を決議し、その代替えとして、ヨーロッパからの移民導入を推進した。
これにより1万人そこそこだった同地の人口は、たちまちその約5倍に当たる5万3千人に膨れ上がり、その内、実に3万3千人が移民であった。
移民で最も多かったのがイタリア人で84%を占め、続いてポルトガル人の8%、スペイン人の5%、オーストリア人の2%の順であった。
もともと奴隷が担っていた人手に替わって導入された移民たちに対する農場側の扱いは、かなり人権にもとるものであったようで、それに抗議したイタリア政府が、ブラジルへの移民送り出しを一時停止したため、策に窮した農場主たちは、議会に掛け合ってそれまで禁止されていた東洋人の導入を容認せしめ、その結果、1908年に第一回日本人移民が到着したという経緯があった。

リベイロン・プレートに配属された日本人移民は、想像を絶する過酷な労働を強いられることになり、2年の契約満期を待たず、1年足らずでほとんどの人たちが着の身着のままで農場から脱出する結果となった(参照:「14」ブラジルにいる明治の日本人)。
イペー・ゴルフクラブは、正にそのコーヒー農場跡に造成されたゴルフ場で、移民史を読んで当時の様子をつぶさに理解していた私は、このコースに立つと、初期移民たちの鎮魂歌が聞こえてくるような気がして、何故かアドレナリンがほとばしり、集中力が増す。

元コーヒー農場跡に造成されたイペー・ゴルフクラブ

さて、1番ホールで会心のドライバーショットを放った私は、キャディーを伴って、ボールに向かって歩を進めた。
コース左手の砲台グリーンで、フラッグの先端が見え隠れして揺れている。ピンまで120ヤード、昇りを入れると130ヤードのショットが必要ということで、キャディーと意見が一致した。
8番アイアンを振りぬくと、ボールは一直線にピンに向かった。結果が気になり、グリーンに向かう歩調が思わず速まる。坂を駆け上がるようにしてグリーンを覗くと、ボールはピン奥3メートルに止まっていた。
「バディー・チャンスだ!」
少し遅れてグリーンに上がってきたキャディーに手を差し出して、パターを求める。
ところが、キャディーの様子が何だかおかしい。いまにもベソをかきそうな顔をしている。
「どうした?」
「バッグにパターが無いんです。」
ハッとした私は、あわててスタートまでの記憶を辿った。

イペー・ゴルフクラブのレイアウトは、ちょっと変わっている。スタート前に練習をするドライビング・レンジから向かって右手、300メートルの所にパッティング・グリーンがあり、反対側の左手、200メートルに一番ホールのティーグラウンドがある。
レンジでショットの練習を終えた私は、スタートまでまだ15分あることを確認して、バッグからパター一本だけを取り出し、キャディーには左方向のティーグラウンドで待機するように指示して、右方向のパッティング・グリーンに向かったのだ。
最後の仕上げとなるパッティングを終えた私は、スタートのティーグラウンドに向かった。そこには既に最終組の3名が待ち受けていた。私は、彼らと握手を交わして健闘を誓い合い、スコアカードを交換するために、手に持っていたパターを、何気なくかたわらの椅子に立てかけた。その時、キャディーは少し離れた所に居たので、うっかりして彼にパターをバッグに入れる指示を怠ったのだ。

332ヤードを駆け足で往復しても5、6分はかかる。パートナーをその間待たせることは勿論できない。私は、キャディーにティーグラウンドからパターを取ってくる指示を与えてから、意を決してローヤルコレクションのユーティリティーをバッグから抜き取り、短く持って下り3メートルのパッティングに臨んだ。ユーティリティーでパッティングをした経験は、勿論ない。努めて冷静を装ってはいたが、内心ではパニック状態だった。
ボールはカップを3メートルオーバーし、返しのパットもオーバーして1メートルが残ったところで、息を切らしたキャディーがパターと共に到着した。
パターを受け取った私は、何とか残りの1メートルを沈めることができた。
40年近くゴルフをしているが、グリーン上でパターが無かったことは後にも先にも初めての出来事だ。
気持ちの動揺が尾を引いたのか、その後、パターをどうしても打ちきれず、ことごとくショートして、結局スタートから5連続ボギーとなってしまった。
この時点で、3打差あった2位のプレーヤーに逆転を許し、1打のビハインドとなった。
もう開き直るしかない。次の6番ホールではグリーンを外し、おまけにアプローチが寄らず、4メートルが残った。ラインは真っ直ぐだ。意識的に強めに打ったボールは、カップの向う側の壁に当って一度飛び上がってから、ホールに落ちた。今日、初めてのパーだ。相手のプレーヤーはボギーで、再び同スコアーに並んだ。
このパーで息を吹き返した私は、前半の残り3ホールを全てパーで終えたのに対し、相手はプレッシャーを感じたのかボギーが重なって、結局こちらが1打の再逆転でアウトを終えた。
後半は一進一退が続いたが、13番のショートホールで、相手のボールは不運にもグリーンサイドの椰子の木の裏にピッタリと付いてしまってスタイミーとなり、ダブルボギーとなって、スタート時と同じ3差となった。
これで気楽になった私は、14番パー4の2打目を40センチにつけてバーディーを奪い、これが相手に留めを差す形になり、結局5打差でトーナメントを制することが出来た。

「本日のチャンピオン!」
司会者に名前を呼びあげられ、拍手の中でトロフィーを受け取る気分は、何度味わっても感動的だ。見守るプレーヤーたちの中には、きっと元コーヒー農場主の子孫も何人かはいただろう。はたして彼らは一世紀前の日本人移民の話を祖父たちから聞き及んでいるだろうか?

去年一年間は、新たに始めた乗馬クラブの運営に時間を取られ、シニア・オープン・トーネメントへの参加は一切できなかったので、一年半ぶりのスクラッチ部門優勝となった。
それにしても、初優勝といい、今回といい、リベイロン・プレートのオープンは何故かゲンがいい。ひょっとしたら、初期移民たちの魂が、私を後押ししてくれるのかも知れない。    (完)

mshoji について

兵庫県神戸市出身。1960年、県立神戸高校卒業後にブラジルに単身移住。サンパウロ・マッケンジー大学経営学部中退。貿易商社、百貨店でサラリーマンを経験後に独立。保険代理店、旅行社、和食レストランの経営を経て、現在は出版社を経営。ブラジル・サンパウロ州サントス沖グアルジャー島在住。趣味:ゴルフ、乗馬、社交ダンス、カラオケ、読書、料理。twitter:@marcosshoji
カテゴリー: その他、色々 パーマリンク