(39)ブラジル発祥の地・バイア州

ブラジル発見の地・バイア州ポルト・セグーロの海岸

1500年4月22日、インドを目指し、西方に向かって航海していたアルバレス・カブラル船長率いるポルトガル船団は、前方に横たわる巨大な陸地を発見した。船団は沖に碇を沈め、ボートで陸地を目指した。そしてインヂオたちが遠巻きに見守る中を、真っ白な砂浜に新大陸発見の第一歩を印した。現在のバイア州、ポルト・セグーロの海岸である。日本では、戦国時代の始まりの頃だ。

新大陸発見、と気軽にいうが、人が住んでいる家に、他人が突然訪れてズカズカと上がりこみ、「ここは自分の家だ」と言ったのと同じことで、現地のインヂオたちにとっては迷惑極まる話である。ポルトガル船団にとって幸運だったのは、その大陸の住民たちが、稀にみる温厚なインヂオたちだったことであろう。

船団が、すんなりと上陸を果たしたことがきっかけとなり、以後、ポルトガルは南米大陸にバンデイランテスと呼ばれる探検隊を派遣して、その地を拠点に、精力的にテリトリーを拡大していくことになる。

新大陸でポルトガルが最初に手がけたのは材木の採取で、特に密生していたパオ・ブラジル(炎の木)とよばれる、木地が赤い木が大量に本国に積み出された。この木こそが、後のブラジルという国名の由来となったのである。

材木の伐採と積み出しには、元々森に住む狩猟民族で、森林の事情に詳しいインヂオたちの協力と労働力が、ポルトガルから持ち込まれた雑貨類との交換条件で利用された。森林の伐採で開墾された土地には、砂糖キビが植え付けられた。砂糖キビ栽培には多大な労働力が必要であるが、当てにしていたインヂオたちは、全く労働の戦力にならないことが、間もなくわかった。狩猟民族である彼らは、森林で自然に繁殖する豊富な果物や木の実を主食にし、蛋白源には魚を川で捕まえたり、森の小動物を狩って食していた。すなわち、何ひとつ生産的な活動をする習慣がなかったのである。つまり、労働ということを知らない極端な怠け者民族だったのだ。

そのため、アフリカから大量の黒人奴隷が導入されることになった。1530年頃から1850年までに、ブラジルに導入された黒人奴隷の数は300万人とも500万人ともいわれている。その内もっとも多くの黒人を導入したのは、当時のブラジル開発の中心地、バイア州であった。

インヂオの子供

余談になるが、労働戦力にはならなかったインヂオたちが、一つだけ、後のブラジル人たちに影響を与えた良き習慣がある。それは彼らが一日に何回も水浴びをすることで、そのまま現在でもブラジル人の特徴の一つになっている。朝、出かける前と、夜、寝る前には必ずシャワーを浴びるし、昼でも外出するときはシャワーを欠かさない。ブラジル人たちの性行為が、奔放で濃厚なのは、この清潔さと関係があるという説もある。

さて、黒人の労働力導入は功を奏し、ブラジルは砂糖キビに続いてコーヒーの栽培、そして鉱産物の発掘と、大いにポルトガル本国を潤すことになり、政府は本格的に植民地のブラジル統治に力を注ぐことになる。そして発祥地ポルト・セグーロから北方431キロの海岸に、新たに街を建設してサルバドールと名付け、1549年にブラジルの首都と定めて、以後1763年にリオ・デ・ジャネイロに首都の座を譲るまで、サルバドールは2世紀余に亘ってこの国の統治を司ることになる。ブラジル独立後、1823年にバイア州となり、サルバドールはその州都となった。

バイア州の面積は、692,669km²(フランスよりやや大きい)で、ブラジルの州の中では最長の900kmに亘る海岸線を有している。白い砂浜に椰子の木が生い茂った美しい海浜の多くは、未だに自然のままで、徒歩でしかアクセスのない場所も多く残されている。

コマンダツーバ・ゴルフコース

開発されている海浜には、次々と大規模なリゾート・ホテルが建設されており、ヨーロッパから比較的近いこともあって、北半球が冬になると観光客がドッと訪れる。リゾート・ホテルには、ゴルフ場が併設されているが、ここ数年の間で、ブラジルで新規オープンされたゴルフ・コースは、バイア州が最も多く、コスタ・デ・サウイッペ、トランコーゾ、コマンダトゥーバ、イベロスターなどは、いずれもピート・ダイなど、有名なゴルフ場設計者の手になる、本格的なチャンピオン・コースである。

観光客の玄関になるのが、南緯12º58”の海岸に位置する、人口約300万人の大都会、サルバドール市である。年間平均気温が29ºCの常夏の街で、歴史上の理由で、黒人の占める割合が多く、人口のおよそ80%が黒人またはその混血である。ちなみに、バイア州への日本人移民の入植はなかったので、今でも日本人はほとんど在住していない。

上下の街をつなぐ、巨大なエレーベーター「ラセルダ」

サルバドールは、バイア・デ・トードス・オス・サントス(聖人たちの湾)と呼ばれる、大きな美しい湾をぐるりと巡る海岸線の平坦地から、急に山がせり上がっていて、街が二重構造になっている。それぞれ上の街、下の街と名付けられ、その落差72メートルを、巨大なエレベーターが繋いでいる。ラセルダと呼ばれるエレベーターは、27人乗りで、片道30秒かかり、毎日約3万人の人たちが利用して、街を上下している。

下の街は、港町特有の雑然とした雰囲気で、海岸通りには多くの商店やレストランなどが並んでいて、たくさんの人たちで賑わっている。街角には、バイアーナ(バイアの女)と呼ばれる白衣の黒人女性たちが屋台を広げ、名物のアカラジェーと呼ばれる椰子油で揚げたアツアツの海老ダンゴを供している。バイアは美味な郷土料理でも有名で、特にムケッカと呼ばれる、魚介類にピーマン、玉ねぎなどを添えて椰子乳で和え、椰子油を加えて土鍋で煮込んだ料理は絶品だ。カレーライスのように、ご飯と混ぜ合わせながら食する料理であるが、特に渡りガニの肉を使ったムケッカ・デ・シリーの味は忘れがたい程、美味だ。テーブルには料理の他にガラス容器に入った緑色のドロリとした液体が運ばれてきて、ウエイターが「お熱いのがお好きならどうぞ」と言って置いてゆく。最初、何だかわからないままに、小さじですくって料理に加えてみたところ、目の玉が飛び出るほど、辛い。バイアでいう「熱い」は実は、辛子を効かせるという意味だったのだ。

屋台でアカラジェーを売るバイアーナ

また下の街には、その昔、陸揚げされた黒人奴隷の収容所として使われていた、センザーラという、大きな赤レンガの建物がそのまま残されている。今はレストラン・シアターとして、活用されているので、内部は壁などが取り除かれて改装されているが、今でも窓には頑丈な鉄格子がはめられていて、外見は当時の面影をそのまま留めている。

エレベーターで上の街に上がると、景観は一変する。どこからでも、エメラルド色の静かな「聖人たちの湾」が見渡せる。石畳の坂道が多く、入り組んでいて油断すると迷子になりそうだ。大型店舗やホテルなどは、上の街に集中している。広場や大通りのあちこちに建てられた、教会の数がやたらに多いことに気付く。サルバドールには実に365ものカトリック教会があることでも有名で、当時の宣教師たちの活発な布教活動が偲ばれる。

中でもボン・フィン教会は、ご利益があることで有名で、昔Jリーグの選手たちが手首に巻いていたミサンガと呼ばれる、願い事が叶うという細い布テープは、同教会のものがオリジナルである。

広場ではカポエイラの練習をしている

ダウンタウンの後ろの山麓には、煩雑な街の雰囲気とは対照的に、静かな住宅街が広がっており、大邸宅や高層マンションが緑豊かな木々と共に、なだらかに傾斜したスペースを埋めている。この地域の住民は、人口の20%といわれる白人たちで、サルバドールの街を実質的に支配している政治家や実業家たちである。

一方、80%を占めるサルバドールの黒人たちは、リオ・デ・ジャネイロの黒人たちに比べて、さらに陽気でノビノビと暮らしているように感じられる。一口に黒人といっても、実は色々な人種(というか種族)があって、外見がそれぞれ違う。バイア州には、リオやサンパウロではまずお目にかかれない、ナオミ・キャンベルばりの、思わず目を瞠るような美人の黒人女性に出会う。ホテルのレセプション、高級ブチックやみやげ物屋などで働く女性に、美人が多く見受けられる。

バイア州に多い黒人美人

その筋に詳しい人の話によると、黒人女性を最も好む人種の双璧は、オランダ人とドイツ人で、ポルトガル、イタリアがその次にランクされるようだ。逆に、敬遠する人種は、イギリス人、アメリカ人(白人)、スペイン人と日本、韓国の東洋系だそうだ。理由として想像されるのは、ドイツ・オランダ人は金髪に食傷しているからだろう。ポルトガル、イタリア人に関しては、黒人に限らず、女性には目が無い。敬遠派についていえば、白人優越意識の強い人種たちであろうが、韓国・日本人については、単なる食わず嫌いであろう。

この街では、アフリカ伝来の文化もしっかりと継承されており、週末ともなると、打楽器をもったグループが、あちこちのバール(オープン・バー)でサンバを奏でている。
広場では、黒人奴隷の護身術だったといわれる、カッポエイラの練習に余念がないグループも見られる。
白衣を着たバイアーナ(女性)たちによる、アフリカ伝来の宗教儀式の数々も盛んである。
また、サルバドールのカーニバルは、リオに次いで盛大なことで有名で、トラックに積まれたトリオ・エレトリコと呼ばれる移動舞台に、楽団と歌手が乗っかり、踊る市民たちでギッシリ埋まった街中を、大音響でサンバをまき散らしながら分け入って、練り歩くスタイルだ。

私は、サルバドールの街にはほろ苦い思い出がある。貿易会社に勤務していた頃、バイア州は販売管轄区域だったので、3ヶ月に一度はこの街を訪れた。「聖人たちの湾」を見下ろす、見晴らしのいい高台に、その音響機器専門店があった。オーナーは恰幅のいい白人で、店は繁盛していた。最初の商談で、彼は「テープレコーダーを大量に仕入れたい。但しサルバドールの独占販売権が条件だ」と提案してきた。
私は迷った末、彼が提示した数量と金額に魅かれ、条件を呑んだ。
最初の数ヶ月間、支払いは順調で、追加注文も次々と入った。ところが、次第に支払いが滞りだし、遂にはストップしてしまった。
結局、在庫を全て回収し、不足分は同店所有のフォルクスワーゲンのワゴン車を差し押さえることで、何とか決着をつけたが、会社に多大な損害を与えてしまった。
帰路は、回収したテープレコーダーを満載したワゴン車を運転して、サルバドールから1,900キロの道程を、二日掛かりでサンパウロの本社に向かう、気の重い旅となった。

この話にはまだオマケがある。当時、我社の社長は自宅を新築し、裏庭に大きな鳥篭を設けて、ブラジル中の珍しい鳥類を集めて飼っていた。
バイア州から南に下る街道の道端には、鳥篭をたくさんかかえた農夫たちが数キロ毎に立っていた。それを見た私は、社長のコレクションのことを思い出し、鳥で社長の機嫌をとろうという下心で、時々車を留めて鳥篭を覗いた。籠の中には色とりどりのいずれ劣らぬ美しい鳥々が収められていた。私は、ワゴン車のスペースの許す限り、鳥篭を買い込んだ。
社長の喜ぶ顔を想像して、少し気分が晴れやかになり、快調に車を飛ばしていたまではよかったが、バイア州とミナス州の境界に差し掛かった所で、道路警察に停車を求められた。そして、こともあろうに、全ての鳥篭を没収されてしまったのだ。ポリスによると、「鳥類の売買は法律で禁止されている」ということであったが、知らなかった事とはいえ、正に、「泣き面に蜂」の侘しい長旅であった。 (完)

mshoji について

兵庫県神戸市出身。1960年、県立神戸高校卒業後にブラジルに単身移住。サンパウロ・マッケンジー大学経営学部中退。貿易商社、百貨店でサラリーマンを経験後に独立。保険代理店、旅行社、和食レストランの経営を経て、現在は出版社を経営。ブラジル・サンパウロ州サントス沖グアルジャー島在住。趣味:ゴルフ、乗馬、社交ダンス、カラオケ、読書、料理。twitter:@marcosshoji
カテゴリー: (ジ)人種差別がない, (ラ)ラテン気質は陽気 パーマリンク

(39)ブラジル発祥の地・バイア州 への5件のフィードバック

  1. shoji6 より:

    サルバドールの洒落たホテルに長逗留してゴルフ三昧などいいでしょうね、ヨーロッパからの観光客のお目当ては何なんでしょうか?ゴルフの他に。

  2. mshoji より:

    お目当ては、何といっても輝く太陽と、美しい砂浜のある青い海でしょう。リゾートホテルでは、バラエティーに富んだ食べ物と、果物が楽しめます。

  3. shoji6 より:

    有名なリオのコパカバーナなどの陰に隠れた謂わば知る人ぞ知る隠れリゾート地みたい?
    人生最後の旅のつもりでちょっと食指が動かんでもないが・・・一人で大丈夫、行けるかな?ゴルフしなくても得意ワザのビーチで昼寝、しながらそのまま客死なんてなことに?

  4. shoji6 より:

    新規挿入されたバイアーナ美人の項、すけべな観光客のお目当ての一つでしょうねー、こんな情報が欲しかったのでーす。

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