(15)ブラジルに生きている明治時代の日本人 II

開拓前の原始林

この日本人植民地とは、ブラジルにおける一つの閉鎖社会で、日本語のみが通用する、求心力の強い共同体であった。子弟のために日本語学校が開校され、陸上競技場や野球場が建設されてスポーツの振興が図られた。青年会が組織され、弁論大会などで活発に活動し、公民館では子女たちに、情操教育が施された。このようにして、植民地内では、明治時代の日本人精神がそのまま培養され、育まれて、二世たちに受け継がれていった。後日、「パラナ州にいけば、明治時代の日本人に会える」といわれるようになった所以である。

長い航海の末、ブラジルのサンパウロに到着した私は、戦前移民の日本人の方が経営する下宿に落ち着いた。そこには、パラナ州から出てきて、大学で勉強しているという二世の女性たち4名が寝泊りしていた。日本人の顔をして、流暢な日本語で自己紹介をする彼女たちに、異国に着いたばかりで、不安で一杯だった私は、ホッと安堵の胸をなでおろした。

ところが、夕方になって状況が一変した。下宿に一つしかないシャワー室を、彼女たちは、先にさっさと占領するだけでなく、皆、申し合わせたように長湯で、出てくるとイライラして待っている私を見ても「お先」の一言もない。

間もなく大テーブルで夕食が始まった。彼女たちは我先におかずを皿に盛り、ポルトガル語でペチャクチャしゃべり合いながら、せっせと食べ物を口に運ぶ。こちらから遠い盛皿や、飯びつを見ても、「つぎましょうか?」とも言わないし、皿を回すこともない。私は、わが目を疑った。

「信じられない!こいつらは、一体何物なのだ!」

日本で、私が接触のあった女性といえば、母親と4人の姉たち、それに何人かの神戸高校の女生徒たちだけだった。そんな私が抱いていた日本人女性のイメージは、「控えめで、しとやか」というものであった。彼女たちの姿は、それとは余りにもかけ離れていた。私は、すっかり幻滅してしまった。

厳密にゆうと、彼女たちはブラジル人であって、日本人ではなかったのだが、日本人の顔をして、なまじっか流暢な日本語を話していたために、私は勝手に、自分が抱いていたイメージの、日本人女性を期待してしまい、その格差の大きさに、カルチャーショックを受けてしまったのだ。そして私は、ブラジル到着早々に、将来の恋人や伴侶となる女性候補から、日系人二世の女性を、完全に除外してしまった。

その反動で、「控えめで、しとやかさ」など微塵も無い、明るく積極的でセクシーな、金髪や茶髪の女性を追いかけ回していたのだから、随分と矛盾した話である。

皮肉なもので、そんな私が、三度目の結婚で、やっと巡り合った理想の伴侶が、日系二世の女性だったというのだから、思えば、随分遠回りをしたものだ。

彼女との出会いは、1990年にブラジルの日系社会に突然起こった「出稼ぎブーム」が、きっかけであった。高給と父母の祖国訪問、という二重の魅力に惹かれて、30万人の日系二世・三世が日本に向かった。私は、日本語の読み書きが出来ない彼らのために、ポルトガル語新聞を発行するために日本に帰国し、会社を設立した。そのスタッフに応募してきたのが、今の妻であった。

面接で彼女を見て「おやっ」と思った。明らかに、昔サンパウロの下宿屋に居た、二世の女性たちとは違う。彼女は、「控えめで、しとやか」であった。思わず目を落とした履歴書に記されていた出身地は、パラナ州の「アサイ市」であった。

2年後に、我々は婚約し、式を挙げるために、私は初めてアサイ市を訪れた。そして、噂に聞いていた「明治時代の日本人」と対面した。

小柄な、禅院幸栄氏は、無表情で私を迎えた。明治の日本人の眼には、娘が連れてきた、三度目の結婚に臨もうとする日本人は、とても真面目な男には写らなかったに違いない。式の日の朝、彼は始めて私に口を開いた。

「式の挨拶文を、日本語で書いてくれないか?」

きっと、私がどの程度の日本人なのかを、試そうと思ったのかも知れない。

手渡した手書きの原稿を手にした幸栄氏は、無表情のまま、うなずいた。

結婚式は簡素なものであったが、遠方から親戚も駆けつけてくれて、旧植民地の集会のような雰囲気になった。幸栄氏が手にした挨拶文を読み上げる段になると、会場はシーンと静まり返り、厳粛さが漂った。私は、そこに明治時代の家長の重みを感じた。

翌日、正式に義父となった幸栄氏に、私は自ら近づいて話しかけたが、明治の人の口はまだ重かった。三日目になって、私がアサイ植民地についての話を切り出すと、義父の表情が和らぎ、ポツポツと言葉が続き始めて、その内、次第に口が滑らかになった。

「アサイの地形は、農業には不向きではありませんか」私は印象を述べた。

山間に今もひっそりと息づくアサイの町

「いや、それまでの日本人植民地造成の試みは、全て川べりの低地を選択したために、マラリアにかかって全滅してしまったのだ。その教訓が、旭植民地の土地選択に生かされていたのだよ」と教えてくれた。私は自分の不勉強を恥じた。

一昨年、ブラジルにおける日本人移民の歴史は100年を迎えた。今年96才の義父の人生は日本人移民の歴史そのものである、と言っても過言ではない。それから彼は、1920年にカンバラの農場に到着してからの家族のストーリーを語ってくれた。

禅院家は、代々、福岡県の宮大工で、長男の宝太郎は腕のいい大工であったが、野心家で、家業の跡取りを自分の長男に託して日本に残し、次男と三男の幸栄(6才)ら、家族を引き連れてブラジルに来たという。

農場での賃金は、家族単位で、労働量によって支払われたという。

「身重だった母も、コーヒーの実をしごき、ザルを振る仕事に精を出した。それがもとで、産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまった。生まれた子供も、ヤギの乳が合わなくてね、、長くは持たなかったよ、、しばらくして、次男の兄が怪我が元で、死んでしまってね、、」遠くを見るような目で、義父は語った。

「農場での子供たちの生活は?」

「子供の世話をするブラジル人夫婦が居て、大人たちが働いている間、皆そこに集まった。遊んでいたのではなく、付近の農家にスイカを売り歩くのが日課だった。悲しかったのは、学校がなくて、勉強ができなかったことかな。ずっと後で、近くに学校ができて、通学できるようになった時は、うれしかったなあー。ポルトガル語がどんどんしゃべれるようになったものさ。これでも成績が良くてね、先生から随分と褒められたよ」と感慨深げであった。その近くの学校というのは、実は8キロも先で、裸足で通ったそうである。子供の足で、3時間はかかっただろう。話が旭植民地のことに及ぶと、義父の目に輝きが増した。

「それはすごい原始林だったよ。中に入ると真っ暗でね。大人5人が手を回しても届かないくらいの太い木がたくさんあった」

「皆、希望に燃えていたね。親父を手伝って、先ず学校と公民館を立ち上げた。家も随分たくさん造ったな。そんな家が、この辺りにまだ何軒か残っているよ」父と共に、植民地の建設に貢献したことは、今でも彼の誇りである。戦後は、家具の製造を手がけ、現在のアサイの目抜き通りにある、大きな家具店の基礎を作ったとのことである。

植民地では、将来家族ぐるみで日本に帰国することを想定し、日本社会で、子供たちが恥ずかしい思いをしないように、厳しく教育したのだという。正直、誠実、勤勉であることは、日本人としては極めてベーシックなことで、植民地ではそれ以外に、礼節を重んじ、節操ある人間を育てることに重点が置かれたという。日本語の勉強だけでなく、柔道、剣道、陸上、卓球、野球などを奨励し、文武両道の修得を目指したということであった。

「野球じゃ、サウスポーのエースとして鳴らしたものさ」彼は、スポーツ万能であったようだ。妻によると、後に卓球選手として、何度もブラジル・チャンピオンになったそうである。

私は、植民地における子弟教育は、てっきりブラジル社会で、日系人として誇りをもって生きてゆくためのものだった、とばかり思っていたので、この話は意外であった。

同時代に前後して、アサイだけでなく、サンパウロ州とパラナ州には日本人植民地が次々とでき、その内部では、同じように帰国を想定して、似たような子弟教育が施された。ところが、第二次世界大戦が勃発し、日本が敗戦したために、移民たちは、日本に帰国することを断念せざるを得なくなってしまった。永住を決意した彼らは、次第にブラジル社会に溶け込んでゆき、結果的に、ブラジル人たちに今日の日系人の正直、誠実、勤勉のイメージを定着させた。そのお陰で、戦後移民の我々が、楽をさせてもらっている、というプロセスが、義父の話で納得できた。

そして、そんな環境で生まれ育った妻のアイデンティティーが、改めて理解できた。

                                     (完)

               

mshoji について

兵庫県神戸市出身。1960年、県立神戸高校卒業後にブラジルに単身移住。サンパウロ・マッケンジー大学経営学部中退。貿易商社、百貨店でサラリーマンを経験後に独立。保険代理店、旅行社、和食レストランの経営を経て、現在は出版社を経営。ブラジル・サンパウロ州サントス沖グアルジャー島在住。趣味:ゴルフ、乗馬、社交ダンス、カラオケ、読書、料理。twitter:@marcosshoji
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(15)ブラジルに生きている明治時代の日本人 II への1件のフィードバック

  1. 匿名読者 より:

    日本への出稼ぎで揺れるアサイ(旭)地区の実態を、数年前にTVレポートで感慨深く視聴したことがありましたが、今回の(15)で更に知識の上積みが出来ました。現在の日本人全体が明治時代の人々の心の持ち様だけにでもタイムスリップというか、一時的空間疎開出来れば平成のこの世の殺伐さを多少なりとも緩和出来るのではないかと考える毎日です。

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