(14)ブラジルに生きている明治時代の日本人 I

1908年、最初の日本人移民を乗せてサントス港に着いた笠戸丸

煙が空高く立ち昇り始めた。しかしそれは、沿線に建設された居住地からのものではなく、マラリアによる死人の急増で、墓地に埋葬する余裕がなくなり、山中に死体を積み上げ火葬したためのものであった。鉄道建設における日本人労働者の歴史は、1910年の惨劇で幕を明けた。続々と日本人が高給に惹かれて、この仕事に身を投じた。その賃金は当時のいかなる仕事と比較しても魅力的だったのだ(「日本人移民の歴史」から引用)。

1908年、一攫千金の夢を抱いてブラジルに上陸した最初の日本人移民781人が、日本で聞かされた皇国殖民会社(現代の人材派遣会社)の宣伝が、全くデタラメであったことに気付くのに、時間はかからなかった。

1888年の奴隷解放にともない、その代替として、新たな労働力の導入が必要となったブラジルは、ヨーロッパからの移民政策を積極的に推進した。この政策のもう一つ目的は、1559年から導入した300万人を超えるアフリカの黒人奴隷が、ブラジル人口の70%を占めていたため、国の白人化を図ることでもあった。ところが、移民に最も積極的だったイタリアが、ブラジルにおける移民の虐待を理由に、1902年に渡航を禁止してしまい、人手不足に窮した農場主たちの圧力で、議会がそれまで禁止していた東洋人の導入を承認した。そのような経緯の元で、到着した最初の日本人移民に対する待遇が、いかばかりのものであったかについては、推して知るべしであろう。宿舎とは名ばかりの元奴隷小屋が与えられ、労働時間は日が昇る時間から沈むまでという、奴隷時代のパターンが踏襲された上に、わずかな賃金は、農場内の売店で調達する食料代で全て帳消しになった上に、不足分は借金として残った。これでは移民派遣会社のいう5年どころか、100年働いても祖国に帰る船賃もでない。移民たちは、同行した派遣会社の職員に抗議をし、彼らも農場にかけあったがラチがあかず、派遣会社自体が、現地事情を把握しないままに、無責任に移民を送り出したという事実が露見したのみであった。

コーヒーの実を素手で枝からしごき落とす

コーヒー農場における労働は過酷を極めた。茎を握って一気に引き、コーヒーの実をしごき落とす仕事は、正に血のにじむような作業で、手のひらと指に、ヤケドのように水ぶくれができて、激しく痛んだ。その実を平たいザルに入れて空中に放り上げ、ゴミと分別する作業では、慣れないため
に、実の半分以上がザルからこぼれ落ちた。実が枝に残ったり、ザルからこぼれ落ちるたびに、監督官から怒鳴りつけられる日々が繰り返された。

ザルでコーヒーの実とゴミを選別する作業

「こんな筈ではなかった..」5年も働けば、日本に戻って何不自由なく生活ができるはずであった。夢破れた日本人たちは、それを歌にして、ピンガ(地酒)を飲んでは唄うのが、せめてもの慰めであった。

ブラジルよいとこと、だれが言うた 移民会社にだまされて 地球の裏側へ来てみれば  聞いた極楽、見て地獄 こりゃ、こりゃ

錦かざって帰る日は これじゃまったく夢の夢 すえは蛮地で野たれ死に オンサ(ジャガー)に食われりゃ せわがない

こんな状況に甘んじているより、イチかバチかの運命にかけようという人たちが現れはじめ、夜警の目を盗んで夜の闇にまぎれて、次々と農場を脱出した。このようにして、最初の移民の半数以上が、一年も経たずに農場を後にしている。

折からサンパウロ州政府は、農作物の運び出しのために、州内の北西部に向かってマットグロッソ州にまで及ぶ、鉄道建設を手がけていた。農場を脱出した人たちの大部分は、この鉄道建設要員になった。過酷な労働であったが、それに見合った給料は得られた。

「大儲けはできなくても構わない。コーヒー農場のように借金がかさむことはないのだ」

と、敢えて重労働に身を投じた彼らを待ち受けていたのは、さらに厳しい現実であった。低地を縫って走る鉄道の敷設予定地は、知る人ぞ知る、マラリアの大発生地だったのだ。

一方、現地事情が知らされないままに、日本側では移民募集活動が続けられ、1910年に第二陣がブラジルに到着した。彼らもまた、第一陣と同じ道を歩むことになる。

こうなるとさすがに、移民会社も手をこまねいている訳にはいかなくなり、逃亡する移民と、新たに上陸する移民たちのために、独自に土地を入手して、植民地を造る方向に動きはじめた。

サンパウロ州内で、移民会社が物色した土地は、伝統的な日本の農業である水田米の耕作を想定したものであった。それが日本人移民たちに、新たな悲劇をもたらした。低地の湿地帯は、とりもなおさず、マラリアの発生源だったのである。

当時、日本人たちはマラリアに関する知識がなかった。そのせいで、始めはそれが単なる発熱だと思っていた。そのうち多くの人が熱をだし始めたが、それでも未だ、異常事態という認識がなかった。ほどなく最初の犠牲者が出た。倒れたら二度と起きあがれない。こうした状況にいたっては、投薬や治療は既に効果は無く、全て手遅れであった。そして次から次へと死者が増え、毎日、誰かの葬式が行われた。家族全員が病に倒れ、親族の参列がないままに、埋葬された人たちもいた。身寄りが無く、腐臭で死んだことが分かった人たちもいる。死人は、森で伐採された薪を炊いて荼毘に付された。

生き残った人たちは、植民地を後にし、新たな場所を求めて分散していった。

その頃、アメリカに発した世界不況のあおりで、コーヒー価格が大暴落した。ブラジル最大のコーヒー生産地であったサンパウロ州の政府は、古参のコーヒー農場経営者たちの圧力で、州内で新興農場が、新たにコーヒー栽培に参入することを禁じる法令を発布した。

これに便乗したのが、サンパウロ州の南側に隣接するパラナ州で、州内の農場主たちにコーヒー栽培を奨励し、そのための労働力として、新たな移民の導入を推進した。サンパウロ州の農場を逃げ出した移民たちは、州境を越えて、続々とパラナ州に移動を始めた。

パラナ州のコーヒー農場主たちは、サンパウロ州のように、移民たちを奴隷扱いすることこそなかったが、過酷な労働と低賃金の条件は、相変わらずのものだった。

そんな背景の1920年、私の妻の祖父、福岡県出身の大工、禅院宝太郎一家が、パラナ州北部、サンパウロ州境に近い、カンバラ市に移住してきた。妻の父、幸栄が6才の時であった。雇用主はコーヒー農園である。

その頃になって、日本人移民たちのサンパウロ州における悲惨な状況は、やっと日本政府の知るところとなり、その善後策に腐心していた赤松総領事は、赴任地のサンパウロからパラナ州に出向いて実態を調査し、その結果、新たな日本人移民の移住先に、同州を推奨しただけでなく、政府主導の移民会社を発足させて、パラナ州に日本人植民地を造ることを、日本政府に提案した。こうして1930年に、ブラジル拓殖会社(ブラタク)によって、土地が買収され、パラナ州における、最初の日本人植民地が誕生する運びとなった。移民たちの夜明けを象徴するように、「旭植民地」と命名された。現在のアサイ市の原形である。

私は、1994年に始めてアサイ市を訪れたが、山間部の起伏の多い地形を見て、とても農業に向いているとは思えず、土地入手の経緯について、いぶかしく思った。当時、事情に疎かった日本政府は、てっきり不動産業者につけ込まれ、二束三文の土地を、押し付けられたに違いないと思い、腹立たしさを覚えた。

ともあれ、原始林の開拓が始まった。この作業の過酷さは、コーヒー農場の比ではない。歴史書に残された、一人の開拓者による原始林の様子を引用すると、

「まず、斧を手にして、密林に立ち向かう。神が何万年もかかって創造したもうた原始林である。それは見事なものであり、森々としていて、神秘的でさえある。10メートル先も、見通せないほど、植物がびっしりと繁り、仰げば大木が八方に枝を広げていて、昼なお暗い。この雄大な大自然の様相は、小さな私を圧倒し、強烈にせまり、どうすることもできない。ただ立ちすくむばかりであった」

開拓者たちは、この原始林に斧を振るって果敢に挑戦した。想像を絶する過酷な作業で、ともすれば挫けそうになる彼らを支えたのは、暗い森の奥に見える一筋の光明で、それはまぎれもなく、あきらめかけていた夢が復活する兆しであった。

 日本人植民地造成の話は、たちまちのうちに広がった。日本から、そして隣のサンパウロ州から、日本人移民たちが続々と集まり始めた。150キロ先のカンバラ市にあるコーヒー農場で就労していた、禅院一家もアサイに居を移した。植民地造成に大工の仕事は不可欠だ。民家が続々と建ち始め、やがて学校や公民館が次々に建設された。仕事は引きも切らない。大工職人としての宝太郎の腕は、最大限に生かされた。16才になっていた幸栄も、見習い大工として父を手伝い、親子で植民地の建設に献身的に貢献した。

やがて、移民たちによって取得された土地に、コーヒーの木が植えられ、一度はあきらめていた、いつかは故郷に錦を飾る日を再び夢見て、今度こそはと、彼らは寝食を忘れて懸命に働いた。                         (続く)

mshoji について

兵庫県神戸市出身。1960年、県立神戸高校卒業後にブラジルに単身移住。サンパウロ・マッケンジー大学経営学部中退。貿易商社、百貨店でサラリーマンを経験後に独立。保険代理店、旅行社、和食レストランの経営を経て、現在は出版社を経営。ブラジル・サンパウロ州サントス沖グアルジャー島在住。趣味:ゴルフ、乗馬、社交ダンス、カラオケ、読書、料理。twitter:@marcosshoji
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(14)ブラジルに生きている明治時代の日本人 I への1件のフィードバック

  1. 匿名読者 より:

    移民初期時代には涙無しには語れない、涙無しには聞けない数多くの未だ知られざる悲惨な歴史的事例があろうかと思われますが、それらは皆現在の在ブラジル日系人存在価値の基礎となった重要な根っ子の部分であろうと思われます。戦後の日本人が忘れかけている諸々を喚起させるためにも今回の(14)明治の日本人シリーズは愈々佳境に入ってきた感がします。益々の力説を期待しています。

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