(101) 日本企業がブラジルで成功する秘訣。

結論からいうと、成功の秘訣なるものは、多分存在しない。そんな秘訣があれば、450社の日本企業が進出しているブラジルで、もっと多くの成功例があってしかるべきであるが、実際にはそんな企業は、ほんの一握りである。

去る10月に、日本のB社から2名のスタッフが、ある調査のためにサンパウロを訪れた際、私はそのアシストを頼まれた。B 社は日本(本社・東京)で、中小企業の業績向上に役立てることを目的に、セミナー開催、講師の派遣、DVDの制作などを手掛けている会社である。それらの中小企業の中には、海外進出を目指している会社も多いとのことで、今回の訪問は、ブラジル進出を検討している企業に対して、そのアドバイスとなるような、DVDの制作が目的だったようだ。

訪問先は、商工会議所、ジェトロ、銀行などで、主に日本からの進出企業のブラジルにおける活動状況について、ヒヤリングをした。さらに、ブラジルで成功している日系の現地企業を3社訪問し、それぞれに成功の秘訣を質問形式で語って貰い、それを録画した。

3社の業種は、リゾート・ホテル、ブチックのチェーン店、高級日本料理レストランで、オーナーは全て日系二世であった。

PAradise-panoramicaリゾート・ホテルを経営しているH氏は、3歳の時に、広島県からブラジルに農業移住者としてやってきた家族の長男で、いわゆる準二世だ。彼は日頃から、「はたらけどはたらけど 猶わが生活楽にならざり じっと手を見る(啄木)」をそのまま地でいったような農業から、何とか脱出したいという、強い願望を持っていた。ある日、井戸を掘っていると、白砂の断層に行き当った。明らかに農地のものとは異なる地質に、H氏は直感的に、何か価値のある鉱物が含まれているような気がし、ひょっとしたら農業から脱出するチャンスになるのではないかと思った。そしてサンパウロの試験場に持ち込んだところ、カオリンという 陶磁器、アート紙のコーティング、化粧品、薬の賦形剤「ふけいざい」などの原料として無限に需要のある鉱物が含まれていることが判明した。あらためて調べたところ、白砂の断層は所有地一杯に広がる、巨大なものであることが解った。それからというものは、念願だった農業からの脱却を果たしてカオリンの採掘に力を注ぎ、それを元手に、湖畔に450室、ゴルフ場、サッカー場などを併設したリゾート・ホテルを建設して今日に至っている。H氏の話をまとめると「夢を持ち、その実現に強い願望を持つ」ことによって、訪れたチャンスを見逃さないようになる、ということであった。

nadia store高級ブチック・チェーン店(11店)のオーナーであるC女史は、数あるブティックとの競争に勝つために、従業員たちに「おもてなし精神」を持って顧客に応対することを徹底して教育することで、他店に差をつけ、事業を拡大した。さらに日系人経営の店として、初期の日本人移民が苦労の末に築いた「正直・誠実・勤勉」というブラジル社会における日系人に対する評価を、そのまま店のイメージと結びつけて、顧客にアピールした。C女史の話を総合すると、「日本人の特徴を生かした経営」に活路を見出した、ということであろう。

サンパウロの高級住宅地にある70席の日本料理店Kのオーナーシェフkinoshita-3であるM氏は、日本料理の修行のために2年間日本に滞在し、その後ニューヨークの日本料理店に2年間勤めたという経歴の持ち主だ。メニューのメインは、お任せのコース料理であるが、オーソドックスで伝統的な日本料理とは、材料も調理法もかなり異なっている、いわゆる創作日本料理である。Mシェフ曰く、伝統的な日本料理のスタイルにこだわらず、現地で調達する材料の特徴を生かし、ブラジル人の嗜好に合う調理法による日本料理の提供をモットーにしているという。「形にとらわれず、柔軟に現地のニーズにあった商品開発」をすることが、成功につながったとのことである。

サンパウロ日本商工会議所の事務局長によると、ブラジルに進出している企業数は450社であるが、成功と言える成果を挙げている企業は、ほんの一握りであるという。これは欧米の企業がブラジルで成功する確率に比べてかなり低いそうだ。では日本企業が立ち遅れている原因はどこにあるのだろうか。元より、絶対的な「成功の秘訣」なるものは存在しないとしても、成功のために取り入れるべき事柄は、いくつかあると思う。

進出企業にとって最大の難関は、言葉(ポルトガル語)と国の文化・習慣が異なることであるが、前出の3企業の成功例は、いづれも日系ブラジル人による経営なので、オーナーと従業員は言語の問題は無く、ブラジルの文化・習慣に馴染んでいるので、進出企業とはスタート時点で大きな差がある。それでも成功のキッカケになった経営者の考え方は、そのまま進出企業にも参考になる筈だ。

私見であるが、進出企業の成功に役立つであろう事柄をいくつか挙げてみる。

  1. 役員の退路を断つ:進出企業の駐在員の平均的な滞在期間は3年で、長くても5年であるが、こんな短期で一企業が成功する筈がない。それに3年間つつがなく勤めれば、帰国できるという立場の人に、中・長期的な成功のためのアイデアが生まれるとは思えない。駐在員を送りだす際に、成功するまで帰国させない無期限制にすれば、きっと真剣になって現地に溶け込み、言葉と文化・習慣を理解して、成功のためのアイデアが次々と生みだされるのではなかろうか。
  2. トップには人間的に魅力のある人を:ブラジルには終身雇用制は存在しない。優秀な社員を、恒久的に雇用することは極めて困難である。その理由は、従業員たち(特に優秀な人材)は、勤務している会社より、もっと魅力的で給料も高い企業に転職するチャンスを常に窺っているからである。彼らを引き留める方法があるとすれば、魅力のある会社にすることしかない。企業の魅力とは、社長の人間的魅力につながる。欧米の企業は、ブラジル進出に際しては、副社長クラスの人物をトップに派遣する。日本の企業はせいぜい課長・部長クラスで、ややもすると、窓際的な人物が派遣されてくることがある。その程度のトップに魅力的な企業にすることを期待する方が無理であろう。ブラジルは欧米文化の国で、日本とは言語・文化・習慣が違うハンデキャップを抱えながら、現地企業のみならず、あらゆる業種に世界中から進出してきている企業との競合を強いられる激戦地であることを忘れてはならない。
  3. 現地スタッフの登用:日本の進出企業の要職は、ほとんど日本人で占められている。例えば、言語・文化・習慣も解らない人に、営業部長が務まるであろうか?ブラジル人気質を理解していない人に人事部長が務まるであろうか? 答えは「ノー」である。3年間勉強したところで、理解度は知れている。それより、現地の人材をどしどし登用する方が、成果があがる。例え社長であっても例外ではない。現に、現地人を社長に登用して成功している日本企業が数社ある。一つの方法としては、ブラジル進出の際、事情が解らない国に単独で進出するより、現地に既存する企業とのジョイント・ベンチャーや買収の形でスタートすることが望ましい。そうすれば、現地企業の経験と人材をそのまま生かすことができるので、結果が出るのがずっと早くなるだろう。    (完)
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(100) ワールドカップの熱気で沸くブラジル:日本代表の戦い

Fifa 20146月12日、ブラジル開催の2014年サッカー・ワールドカップは、予定どうりに、サンパウロ市のコリンチャンス・スタジアムで行われたブラジルvs.クロアチア戦で、全64試合に及ぶ、熱戦の火ぶたを切った。

開幕ギリギリで完成したサンパウロ・スタヂアム

開幕ギリギリで完成したサンパウロ・スタヂアム

ブラジル政府が今回のW杯開催のために費やした経費は、約100億ドルといわれ、当初の見積もりの約10倍にまで膨れ上がった。主な内訳は、道路整備に33.6%、スタジアムの改装・建設に27.7%、飛行場の改装・建設に26.5%が費やされた。この莫大な出費に対して不満を爆発させた国民は、ブラジルに今必要なのは、教育と医療設備への投資であり、W杯への法外な出費はお門違いだと訴え、開催の数か月前から各地で大規模な抗議デモが行われ、一部ではそれがエスカレートして暴徒化するに至った。また、12都市で改修または新たに建設されたスタジアムの工事、道路と空港の整備は、予定より大幅に遅れ、それらの報道がマスコミを通じて海外に広く流されたので、W杯が果たして予定どうりに開催されるのかどうかと、FIFAと世界中のサッカーフアンたちをやきもきさせた。その一方で、地元のブラジル国民は、極めて楽天的で、予定どうりの開催に疑問を抱く人たちはごく稀であった。そして、開催日の数日前に、きっちり帳尻を合わせたように、スタジアム、アクセス道路と空港が、次々と完成し、予定どうりに開催日を迎えた。各地でゲームがスタートすると、それまでの不満や不安もどこえやら、国中がW杯ムード一色に包まれ、2億の国民は一丸となってブラジル代表応援ムードで盛り上がっている。

私は、特にサッカーフアンということでもないが、ブラジルでは一年を通じて質の高いプロサッカーのトーナメントが行われ、水曜日と日曜日のゴールデンアワーに、必ずサッカーの試合がテレビ放映されるので、この国の住民であれば、好むと好まざるに関わらず、サッカー観戦は生活パターンの一部になっているので、私を含めて、サッカーに関しては、かなり目が肥えているといえる。

今回の、ブラジル開催に当たり、高校の同窓で、大のサッカーファンであるK君とその友人が「日本代表の応援に、君の分のチケットも持って、ブラジルに行くので案内を頼む」とメールしてきたので、私も観戦に付き合うことになった。ところが、日本代表のグループリーグ戦の3試合は、レシーフェ、ナタールという、いづれもサンパウロから2500キロも離れた都市と、1500キロのクイアバー市に決まってしまったので、サッカー観戦のために、彼らとブラジル縦断の大旅行をすることになる。プログラムによると、レシーフェの一戦目から、二戦目のナタールの試合まで4日間のブランクがある。そこで、両市から約500キロ離れた大西洋の沖合にある、世界遺産の「夢の島」、フェルナンド・デ・ノローニャ島観光をスケジュールに組み入れて、W杯便乗値上げが始まる前の、2月頃からホテルとフライトの予約を入れ、万事整えて友人たちの来伯と、初めて生で見る日本代表の戦いぶりを楽しみにして待った。

その間、たまたま5月に商用で訪日することになったが、日本ではW杯における日本代表の活躍予想の報道が、連日マスコミを賑わし、前回のベスト16を上回るベスト8以上へ躍進の可能性ありという、皮算用で日本中が盛り上がっていた。特にヨーロッパのチームでプレーする主力選手たちの「優勝を目指す」という強気の発言があったりして、サッカーファンたちは、W杯における日本代表の活躍に夢を膨らませていた。

ブラジルに帰国すると、間近に迫ったW杯の予想記事が連日報道されていたが、地元ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、オランダなどの下馬評が高い反面で、日本代表の活躍を予測する記事は、皆無だった。

6月14日、待望の日本代表の第一戦、コートジボアール戦が、レシーフェのペルナンブーコ・スタジアムでキックオフとなった。この試合の観戦に日本から訪れた人たちの数は約7千人といわれ、スタンドの一部をサムライ・ブルーで彩った。私は、ブラジルに来て50年余になるが、これ程多くの日本人が揃って来伯し、一堂に集まった風景を見たことがない。日系社会にとっては、歴史的出来事であろう。

さて試合の方は、開始早々に本田選手の見事なシュートで先制点を挙げ、幸先の良いスタートを切った日本代表であったが、その後、先制点が災いしたのか、気持ちが守りに入ってしまい、積極性がなくなって動きにぎこちなさが目立つようになり、一方的に押される展開となって、案の定、疲れで足が止まった後半に、決定的な2点を奪われ、逆転負けを喫してしまった。

サムライ・パフォーマンスの日本人サポーター

サムライ・パフォーマンスの日本人サポーター

W杯は、ピッチで繰り広げられる白熱したゲームもさることながら、各国のサポーターたちの応援合戦も見もので、それぞれが特徴のあるパフォーマンスで、自国チームを応援する。大部分は、選手と同じユニフォームを着用し、さらに顔や身体を自国の国旗の色にペイントしたり、民族衣装に身を包んだりして、休むことなく選手たちに声援を送る。

日本人サポーターたちは、一様に選手と同じサムライ・ブルーと呼ばれる、青いユニフォームを身につけ、「ニッポン、ニッポン」とやや控えめの応援に終始していたが、チームが劣勢になると静まり返って見守ることが多かった。またパフォーマンスは、ちょんまげ姿の侍スタイル、忍者、浴衣の女性などがチラホラ見られたが、他国に比べてバラエティーと迫力に乏しい感じがした。

スタンドをサムライ・ブルーで彩った遠来の日本人サポーター

スタンドをサムライ・ブルーで彩った遠来の日本人サポーター

日本代表の選手たちは、たまたま、我々と同じホテルに宿泊していたが、一次リーグ戦突破のためには勝利が不可欠とされていた第一戦のゲームを落としたショックはかなり大きかったようで、翌日、朝食を済ませてバスに乗り込む選手たちの姿には、どことなく敗戦の後遺症が深く影を落としているように感じられた。

6月19日、ナタール市での第二戦目は、同じく第一戦目をコロンビアに敗北したギリシャが相手だ。一次リーグ戦を突破するためにはお互いに負けられないゲームである。

この試合で、日本代表は前回よりも積極的に動き、一人の退場者を出したギリシャに対し、ゲームを通じてパスを回し、ボールの支配率は65%に達したが、肝心のゴールへシュートする決定力が不足していたために点が取れず、結局0対0の引き分けに終わった。翌日、ブラジルのマスコミは、終始ゲームを支配しながら、勝利に結びつけられなかった日本代表の戦いぶりを、批判する記事が紙面を賑わした。コメントの総評は「決定力の欠如」という点で、ほとんど一致しており、中には、日本代表はパスの練習に重きを置くあまり、シュートの練習にはほとんど時間を割かないのではないか、という酷評さえあった。

6月24日、一次リーグ戦通過の土壇場にたたされた日本代表は、クイアバー市のパンタナル・スタジアムで、既に一位で決勝トーナメント進出を決めているコロンビアとの第三戦目に臨んだ。勝つしかリーグ戦通過の目は無い。

日本は、第二戦目よりさらに積極的にピッチを走り回り、時折シュートも出て、この試合にかける意気込みが感じられた。前半早々にペナルティー・キックを取られて一点を失ったが、気落ちすることなく攻め、終了間際にシュートを決めて、前半を同点で折り返して勝利に一縷の望みをつないだ。既に決勝トーナメント進出を決めている余裕のコロンビアは、レギュラー8人を温存していたが、後半に入ってレギュラーを投入した途端に見違えるようにチームに活力がみなぎり、立て続けに3点を奪って圧倒し、日本代表にW杯のピッチから立ち去る引導を渡した。この試合で、日本が放ったシュートは21本で、その内わずか一本のみ、ゴールネットを揺らしたに留まった。シュートは全てゴールポストの枠外か、キーパーの正面をつき、キーパーの手の届かない箇所に、正確にシュートを決めるコロンビアのストライカーたちとは対照的だった。

サッカーは、パスでボールを支配する「陣取り合戦」ではなく、「点を奪ってナンボ」のゲームである以上、シュートを放つ必要性もさることながら、ネットを揺らせる場所にキックする正確さも、今後の日本代表には欠かせない重要課題であることを、W杯の3試合を見るために、はるばる遠い日本から応援に駆けつけた7千余人のサポーターたち誰もが痛感したことであろう。

今回の観戦で、「W杯優勝を口にするには10年早い。それより黙々と練習を重ね、自らの技をもっともっと磨け。」というのが、日本代表選手たちに対する私の率直な苦言だ。

という訳で、日本代表は何らいいところなく、個々の選手やチームが、ブラジル人たちに与えた印象も極めて希薄なままに、ブラジルから去ることになってし まった。遠来の友人たちも、日本代表のふがいない戦いぶりに少なからずがっかりしていたが、美しいフェルナンド・デ・ノローニャ島の観光で、少しは気分が癒されたようだった。それにしても、7千人以上の日本人たちが、レシーフェとナタールに5日間も滞在していながら、目と鼻の先にある、世界遺産で、風光明媚なノローニャ島を訪れる人が皆無だったことは、日本の旅行社の職務怠慢と揶揄されても仕方がないだろう。

さて今回、日本人が現地のマスコミの話題となった出来事が二つあった。それらは残念ながら、選手やチームに関わるものではなかった。

ブラジル初戦で笛を吹いた西村主審

ブラジル初戦で笛を吹いた西村主審

一つ目は、ブラジルv.s.クロアチア戦に主審として笛を吹いた、西村雄一審判員だ。彼は、クロアチア選手のゴールエリア内でのクロスプレーに対し、迷わずペナルティーキックを宣告したのだ。それによってもたらされた得点は、劣勢のブラジルにとって起死回生となる逆転弾となったので、そのプレーが本当にPKに値するものであったかどうかが、話題となってマスコミを大いに賑わした。このペナルティーについては賛否両論であったが、どちらかといえばPKを疑問視するサッカー評論家たちが多く、西村氏はブラジル勝利の片棒を担いだというニュアンスの記事のお蔭で、一躍、ブラジル国民から英雄扱いされる存在となった。ジョーク好きでクリエイティブなブラジルらしく、翌日には早速、黄色と緑のブラジルのユニフォームを着こんだ西村選手(?)のサッカー・カードが発売され、飛ぶように売れたという。

青いごみ袋で応援し、試合終了後スタンドのごみを収集した。

青いごみ袋で応援し、試合終了後スタンドのごみを収集した。

もう一つの話題は、サポーターに関するものだ。レシーフェとナタールで行われた日本代表の試合終了後、日本人サポーターたちが占拠していた観覧席のゴミ類が、彼らによってきれいに取り除かれ、塵一つ残っていなかったということが、ブラジル・サッカー史上始まって以来の出来事だとして、マスコミが取り上げた。(最もこの行為については、賛否両論で、ブラジルではどこのスタジアムにも清掃専門の従業員がいるので、彼らの仕事を奪う、行き過ぎた所作だとの見方もある。)

さて、ブラジルW杯の進行状況は、現在8強が出揃ったところで、正に佳境に入ろうとしている。幸いにして、地元ブラジル代表は、苦しみながらもベスト8に名を連ね、ブラジル全土をスッポリと包み込んだW杯熱気をそのままキープしている。工事が遅れていた12か所のスタジアムは、ピッチの芝付も上々で、最高のコンディションにあると、各国代表選手たちは、賞賛の言葉を惜しまない。危惧された治安面でも、置き引きなど(持ち主の不注意による)の小さな事件はままあるものの、大きな問題が発生することなく、無難に進行している。

ブラジル代表の試合がある日は、全国的にほぼ休日扱いで、いざ試合が始まると、街から人の影が消え、いつもは渋滞する市街の道路や、ハイウエイを走る車も、ウソのようにまばらになる。2億人の熱烈な応援に後押しされた、ブラジル代表の今後の戦いぶりが注目されるところだ。

さて、今年の年末には大統領選挙がある。W杯に多大な国費を割いた、現役のジウマ大統領が再選されるかどうかは、ブラジルが優勝するか否かにかかっているというのが、もっぱらのウワサであるが、どうもその信憑性は極めて高そうだ。 (完)

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(99)南の地の果て:パタゴニア

地の果て、パタゴニア

地の果て、パタゴニア

パタゴニアは、南緯40度付近を、アンデス山脈から大西洋に向かって流れるコロラド河から南の地域の総称である。1520年に、同地に上陸したフェルナンド・マガリャンエス(マゼラン)によって名付けられたという。

過去に、私が経営していた旅行社では、アルゼンチン・ツアーが主力商品だった。「南米のパリ」ブエノスアイレスのタンゴ・ツアーと「南米のスイス」バリローチェのスキー・ツアーなどに人気が集中していたので、他のツアーまで手が回らなかったが、それでも「南の地の果て」パタゴニア・ツアーは、一度だけ企画して実施した。ツアーに添乗員として同行したのは、同僚のT君だったが、実は、そのツアーで劇的なハプニングがあった。地球の最南端にある町、フエゴ島のウシュアイアから、船でビーグル海峡を周遊するツアーで、周辺の雪を頂くアンデスの山々の、余りにも美しい景観に見とれていた一人の観光客が、足を滑らせてデッキから海に転落したのだ。季節は春だったが、南極が目と鼻の先にあるビーグル海峡の水温は零度に近い。必死でもがく観光客を見て、その場に居合わせたT君が間髪を入れずに海に飛び込み、見事にその客を救済したのだ。T君は、島根県浜田市出身で、幼いころから荒波の日本海を、プールのようにして育ったというが、その経験が思わぬ所で発揮されたという訳だ。その記憶がいつも頭にあったので、いつか一度「地の果て」を訪れて、ビーグル海峡を見てみたいと思っていた。

極寒のパタゴニア旅行は、やはり夏がいいだろうということで、連日うだるような暑さが続くブラジルから脱出して、家内と共に「地の果て」に向かった。

サンパウロ空港から3時間足らずのフライトでブエノスアイレスに到着する。そこから国内線に乗り換え、さらに3時間飛ぶと、下降体勢に入った機の窓から、なだらかな起伏をともなって、延々と広がる砂漠地帯が見える。さらに着陸体勢に入ったところで、真っ青な水を湛えた巨大な湖が目に飛び込んできた。パタゴニア最大の湖、アルゼンチン湖だ。機は間もなく、そのほとりにあるカラファッテ空港に着陸した。

機から出ると、さすがに空気がヒンヤリしている。カラファッテは、メインストリートが一本走っているだけの小さな街で、特に目立った産業は無く、年間を通じて訪れる観光客で支えられているようだ。

ぺリト・モレノの氷河。高さは60mに及ぶ

ぺリト・モレノの氷河。高さは60mに及ぶ

翌日はぺリト・モレノの氷河観光だ。ロス・グラシアレス国立公園内にある氷河は、南極、グリーンランドに次ぐ世界第三の規模で、世界遺産に登録されている。車で2時間程走るとアルゼンチン湖のほとりにある小さな港に着く。そこから船に乗り換えて氷河に大接近を試みるのだ。静かな湖面の前方に、青白い帯状の物体が横たわっているのが見える。近づくにしたがって、それはどんどん膨れ上がり、遂に高さ60m、幅5kmに及ぶ巨大な氷の壁となって、眼前に迫ってきた。正に圧巻である。

ガイドの説明によると、アンデス山脈の谷間になっているこの地域は、特異な気象現象によって年間を通じて製氷機の営みがなされており、さらに積雪が重なって湖に向かって大量の氷が押し出されてくるのだという。水上に出ている部分は60mだが、水面下には、更に120mの氷が沈んでいるとのことだ。

氷はいわば、雪解け水を再び凍らせたように純粋なので、透き通った水色をしている。呑兵衛の私は、この氷でウイスキーをオンザロックにして飲めば、さぞかし旨かろうと思った途端に、思わず喉がゴクリと鳴った。

午後は、氷河ロス・グラシアレスを山側から見下ろす場所に向かった。船で湖面から見上げたグラシアレスも見事だったが、上からの眺めも、表面がギザギザの氷河が、山間を遥か彼方まで延々と続いているのが見え、その規模の大きさがよく解って、すばらしい景観だ。圧巻は、時々ドーンッという轟音と共に、巨大な氷の塊が崩れ落ちる瞬間で、観光客たちはその度にウオーッと歓声をあげる。

ウプスラ氷河

ウプスラ氷河

翌日は、氷河の面積としてはペリト・モレノより大きいという、ウプサラ氷河に向かった。高速艇で、2時間ほどアルゼンチン湖をアンデス山脈に向かって航行すると、ウプサラ氷河に着く。近づくにしたがって、湖面にプカプカ浮かぶ青白い大小の氷の塊の数がどんどん増えてゆき、船はその間を縫うようにして、グラシアレスに接近していった。こちらは、ペリト・モレノのような巨大な壁状の氷ではなく、山間から膨大な量の氷が、ドバッと湖に溢れ出ている感じの氷河だ。午後は、4輪駆動の車で山間の細道を縫って登り、ウプサラ氷河を上から眺めるポイントに向かった。山頂の気温は低く、吹きつける冷たい風に襟元をすぼめながら、チリーとの国境を越えて、遥か彼方まで続くグラシアレスの風景を眺めた。ガイドの説明によると、地球の温暖化で氷河の面積は年々減少しているとのことだ。帰路で、車窓から大量の大木が横倒しになっているのが目に入った。ガイドに訊いてみると、この辺りの土地は年間を通じて吹く強風のために、土が吹き飛ばされるので木の根が浅く、木が一定の大きさに成長すると、風に倒されてしまうのだ、とのことだった。

地球最南端にある街、ウシュアイア

地球最南端にある街、ウシュアイア

翌朝、カラファッテ空港から、旅の終着点となる地球最南端の町、ウシュアイアに向かった。1時間半のフライトで、機は、ビーグル海峡にせり出したように横たわる滑走路に舞い降りた。ウシュアイア空港に到着だ。遂に「地の果て」までやってきた。

夏だというのに、厚着していても肌寒い。先ずはホテルに向かった。ウシュアイアの街はビーグル海峡から、アンデス山脈に向かってかなり急傾斜でせり上がっており、街全体が斜面に広がっている。ホテルは丁度、港が眼下に一望できる場所にあり、停泊しているフランス国籍の豪華客船が見える。丁度昼飯時だったので、ホテルで海鮮料理のレストランを教えてもらって出かけた。ウシュアイアの街は、ビーグル海峡に沿って横長に広がっており、海岸通りから二番目の大通りがメイン・ストリートのサン・マルチン通りで、レストランはその中ほどにあった。看板には「CANTINA FUEGUINA de Freddy(フレディーのフエゴ料理店)」とある。

生簀でうごめくタラバガニ

生簀でうごめくタラバガニ

店のショーウインドーがそのまま生簀になっていて、大きなカニがギッシリ詰まっていてうごめいている。タラバガニのようだ。カニに目が無い家内と私は、ウシュアイアでカニに出会うとは想定外だったので、嬉々としてそのレストランの扉を押した。中は、15~16卓しかない小さな店で、出されたメニューには、煮たり、焼いたり、蒸したりのカニ料理がズラリと並んでいる。中に、1キロ:350ペソ(35米ドル)と書いた料理があったのでウエイターに訊いてみると、生簀から気に入ったカニをピックアップして、丸ごと茹でる料理だという。タラバガニ一匹丸ごととは何とも豪勢だが、それに決めた。ピンピン生きたカニを秤にかけると2キロあったが、それでも小さ目だという。

2キロのタラバガニ (食前)

2キロのタラバガニ
(食前)

食後のタラバガニ

食後のタラバガニ

待つこと20分、真っ赤に茹で上がったタラバガニがトレイに乗せられて運ばれてきた。大型のハサミが手渡される。ハサミを縦に入れてチョキチョキと固い皮を切ると、プリプリした長い肉がスポッと抜ける。あとは、マヨネーズ・ソースをつけて食べるだけだ(ポン酢だともっとウマいかも...)。最初の足を口に入れると、甘みがあってサッパリしたカニの味が口いっぱいに広がった。私も家内も、黙々と足を外し、皮を切り、身を取り出しては口に運んだ。足を平らげて、次に甲羅をひっくり返すと、そこにも肩肉がビッシリと詰まっている。ところがフォークだとどうしても身が残ってしまう。箸があれば残さず取り出すことができるのに..などと、セコイことを考えながら、ひたすらカニに没頭した。残った残骸が1キロあるとしても、二人で1キロのカニ肉を胃に送り込んだことになる。カニだけで満腹とは、何とも贅沢な昼食だ。

吾々は、ウシュアイア滞在中の三日間、昼夜合計6回、その店に通った。お蔭で、メニューにあったカニ料理はほとんど食べ尽してしまった。レストランのスタッフともすっかり顔なじみになり、最後の日などシェフがわざわざテーブルまで、注文した料理を運んできて、挨拶してくれた。

帰る日になって、先週実施した年一回のチェックアップで、中性脂肪が高くなっており、医者から渡された禁止食材リストに、カニが含まれていたことを思い出したが、もう後の祭りだ。

波静かなビーグル海峡

波静かなビーグル海峡

二日目は、ビーグル海峡の周遊と、ペンギンの生息地訪問ツアーだ。ビーグル海峡は、大西洋と太平洋を結ぶ、全長240キロの狭い水道で、1831年から1836年にかけて、チャールス・ダ-ウインが行った世界一周航海で通った経路で、船名の「ビーグル号」にちなんで命名された。実は、私はマゼラン海峡とビーグル海峡を混同していた。1520年にフェルナンド・マガリャンエスが発見したマゼラン海峡は、ビーグル海峡よりさらに北にあって、大陸とフエゴ諸島を隔てる、全長500キロの海峡で、一方のビーグル海峡はフエゴ諸島の間を縫って大西洋から太平洋に繋がっている全く別の海峡であることを、今回の旅行で初めて知った。

地球最南端の灯台 があるホーン岬

地球最南端の灯台
があるホーン岬

ビーグル海峡を周遊する船は、200名は乗れるであろう純白のスマートな観光船で、船のデッキには高さ1,20mの手すりがぐるりと張り巡らされている。海峡を渡ってくる風は冷たく、デッキに出るときはフードを頭まで引き上げ、手袋をしないとすぐに凍えてしまう。

デッキから望む、アンデスの山々が雪を頂いた風景は正に絶景で、その昔、わが社のツアーで、景色に見とれて海に転落した人がいたことも、なんとなくうなずける。アルゼンチンとチリーの国境になっているビーグル海峡は、波は穏やかで船の揺れも少なく、途中で、地球最南端の灯台があるホーン岬や、アシカたちが寄り添って昼寝をしている小島などに一時停船しながら、2時間余の航海でペンギンの里に到着した。

ペンギンの里

ペンギンの里

そこには、まぁーペンギンが居るわ居るわ...渚から小高い丘にかけて、ゆるやかに広がる海浜に、体長70センチ程のペンギンたちが所狭しとひしめき合っている。中には、海に潜って魚狩りをしているペンギンたちもいるが、陸のペンギンたちの大部分はその場所にじっとしたまま佇んでいる。まるで、そこを動けば、別のペンギンに場所を取られてしまうのを危惧しているかのようだ。船客たちは、全員、寒いデッキに出て、夢中でシャッターを切る。カップルたちは、交代でペンギンを背景に、お互いにポーズをとってカメラに収まる。写真撮影が一段落したところで、船は舳先を巡らせて帰路についた。

黄昏のビーグル海峡

黄昏のビーグル海峡

ビーグル海峡の海流は、大西洋から太平洋に向かって流れているようで、帰路はノット数が加速して、1時間半しかかからなかった。ウシュアイアの港に着くと、昨日停泊していた大型豪華客船は姿を消し、その替わりに二隻の中型客船が、新たに入港していた。話によると、ウシュアイア港は、南極大陸周遊ツアーの玄関口になっていて、客船は、ここを起点にして南極に向かうそうだ。

翌日は、一日ゆっくりと「地の果てショッピング」を楽しんだ。メインのサン・マルチン大通りには、軒並みに土産物屋がある。圧倒的に種類も数も多い土産物は、ペンギンで、素材と造作に工夫を凝らした大小様々なペンギンたちが、店中所狭しと並んでいる。

ウシュアイアでの買い物。馬の置物とペンギン

ウシュアイアでの買い物。馬の置物とペンギン

ジュエリーも数軒あって、アルゼンチン特産の石で細工したペンギンや、様々な動物がショーウインドーを賑わしている。ロドクロジータ(別名インカの石)と呼ばれる、ピンクの石を使った彫物が多い。

そんなジュエリーの一つで、ショーウインドーの中に、馬の頭を彫った高さ40センチ程の置物があるのが目に留まった。取り出して見せて貰うと、原石は緑色をしたアルゼンチン・アクアマリーナとのことで、実にリアルに彫られている。持ち上げてみるとズシリと重い、7~8キロはあろうか。私は、足元を見られないために平静を装ったが、実は、これほど見事な馬の彫刻は今まで見たことがなかった。馬好きの私には、正に垂涎モノだ。値段を訊くと1万ペソ(1千米ドル)だという。そっと家内に目配せをする。「気に入ったのなら買ったら?」と、目で言っている。私は、余り興味が無いようなフリをして、賭けに出た。「7千ペソなら買ってもいい」。店員はオーナーにお伺いをたてるために奥に消えた。答えは「NO」だった。吾々は小さなペンギンを2,3個買っただけでその店を出ようとした時、店員が「チョットお待ちください!」と追いかけてきた。結局、7千ペソでOKということになった。余りに重いのでホテルに届けて貰うことにして店をでた。店から離れると、家内が私にパチッとウインクした。

「地の果て」の太陽は夜10時頃まで天空に留まり、朝の5時には再び空に戻ってくる。ウシュアイアではタラバカニをふんだんに食べ、ペンギンの里を訪れ、おまけに見事な馬の置物を手に入れて、満足感にひたりながら、我々は最後の短い夜を過ごし、翌日「地の果て」を後にした。

ウシュアイアを飛び立ったボーイング737機は、4時間余りでブエノスアイレス空港に着いた。時刻は午後6時半だ。気温は今までの寒さがウソのように、24℃と温かい。ひょっとしたら、タンゴショーに間に合うかも知れない。ホテルに向かうタクシーから旅行エージェントに連絡したら、8時半のディナー・ショーになんとか間に合うという。予約を入れて、ホテルにチェックインし、大急ぎでシャワーを浴びて着替え、タクシーでタンゴ・ハウスに向かった。

タンゴハウス。エル・ビエホ・アルマセン(古倉庫)

タンゴハウス。エル・ビエホ・アルマセン(古倉庫)

もう何度も来た、エル・ビエホ・アルマゼーン(古倉庫)だ。夕食は、タラ料理と白ワインを注文した。ゆっくりと食事を楽しんでから、筋向いにある小劇場に席を移した。今回の席は、中2階のロフトで、ステージを正面から見下ろせる絶好の場所だ。どうも駆け込み予約だったせいで、一般席が満杯のため、アップグレードされたようだ。吾々は時々シャンパンで喉を潤しながら、相変わらずすばらしいタンゴ・ショー(参照:http://bit.ly/1m2Gtwq)を楽しんだ。

多彩で見どころ一杯のパタゴニア・ツアーをつつがなく終え、帰路にブエノスアイレスのタンゴショーで締めくくって、翌朝、私たちは、アエロパルケ空港からサンパウロに向けて飛び立った。(完)

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(98)ブラジル人と信仰心。巡礼の旅

威風堂々としたアパレシーダのカソリック総本山

威風堂々としたアパレシーダのカソリック総本山

ブラジルの法律には、信仰の自由が明記されている。世界中の人種が集まっているブラジルには、あらゆる宗教が持ち込まれているが、ポルトガル植民地時代の16世紀に、宣教師によって布教されたキリスト教の信者が今日でも圧倒的に多く、国民の87%を占めている。内、カソリック(ローマン)信者は、国民の3分の2に当たる64,5%を占め、国別の信者数では世界一である。ブラジル全土にあるカソリック教会の数は、余りにも多くて統計的にもその数が定かではないが、その総本山はサンパウロとリオ・デ・ジャネイロのほぼ中間地点にあたる、アパレシーダ市にある。威風堂々とそびえる教会は、バチカンのそれにつぐ世界第二の規模といわれ、訪れる信者たちを圧倒する。

徒歩による巡礼者たち。皆、遠足気分だ。

徒歩による巡礼者たち。皆、遠足気分だ。

全国から参拝に訪れる人たちの数は、年間1千万人を超え、街は常に多くの人々で賑わっている。

この参拝のためにアパレシーダを訪れる旅は、「ロマリア(巡礼)」と呼ばれ、グループを組んだ人々が、約束ごとを誓い、感謝の意を捧げ、ご利益を求めたり、願い事をするために訪れるもので、目的が明確でなくても、単なる信仰心から、毎年訪れる人たちも多い。「ロマリア」の語源は、「ローマ(バチカン)訪問」であるといわれている。巡礼は昔から、徒歩または馬などで、何日もかけて苦労しながら訪れてこそ、ご利益があるといわれているが、近年では、ラクをして、車で訪れる人たちが結構増えており、その場合、同じご利益を授かるのかどうかについては、定かではない。

私が住んでいるモジ・ダス・クルーゼス市からも、毎年、たくさんの人たちが、秋から冬にかけて、グループを組んでアパレシーダに向かって巡礼の旅に出かける。多くの人たちは徒歩で、150キロの道のりを、一週間かけてテクテクと総本山をめざす。リュックを背負って街道沿いに、集団で一日8時間を歩行し、夜になると民宿でザコ寝をする。日が昇ると再び歩き始める。人々は、皆一応に明るく楽しそうで、巡礼とはいえ、まるで遠足のような雰囲気だ。

山を越え、川を渡り馬で巡礼の旅

山を越え、川を渡り馬で巡礼の旅

馬や馬車で出かける人たちも多く、山を迂回し、川を渡って、いくつもの農場を横切りながら、一日30~40キロのペースで、四日間をかけてアパレシーダに向かう。夜になると、あらかじめ許可を得ている最寄りの農場の一角で、キャンプを張って馬を休める。星空の下でとる夕食は、大概シュラスコ(焼肉)で、歌ったり、しゃべったりしながら和気アイアイの夜を過ごす。就寝は芝生の上に張ったテントだ。そこには、巡礼という言葉から受けるおごそかさとか、神妙さは不在で、友達同士による愉快な親睦旅行の雰囲気だ。徒歩にせよ、馬にせよ、少々の辛さを、明るく楽しくやりこなしてしまうところが、いかにもブラジル人らしい。

総本山では、遠路はるばる訪れた巡礼者たちに対し、神父が、グループごとに、祝福の儀式を執り行ってくれる。

ロマリアに向けて乗馬練習をする筆者夫妻

ロマリアに向けて乗馬練習をする筆者夫妻

「一年の計は元旦にあり」といわれるが、私は年頭に、今年、実現を目指すいくつかの事柄の一つに、午年にちなんで、馬でアパレシーダに巡礼することを加えた。というのも、再婚した妻が子供の頃、父親の農場で飼っていた馬に乗って遊んだ経験があったため、一年前から始めた乗馬にすっかり慣れて、自信もついたようで、一緒にロマリアに挑戦をしてみよう、ということになった。私は、6年前にリタイア-して、念願だった馬を取得して乗馬を再開し、昔取った杵柄で、今ではかなり長時間でも乗れるようになってはいるが、4日間で150キロの踏破は未経験で、それには人馬ともにそれなりの体力が必要だ。そこで今年に入ってから、一日おきに2時間程、愛馬に跨るようにしている。

楽チンな軽馬車

楽チンな軽馬車

どうせ行くなら家族の一員であるワンちゃんもつれていこうということになり、鞍を付けた乗馬用の馬を一頭と、もう一頭は軽馬車を装備して、それにワン公を乗せて行くことにした。乗馬で疲れれば、軽馬車を操ったり、代わる代わるにすれば、体力的にも楽チンで、さしもの150キロも楽勝だろうというコンタンだ。

家内も私もカトリック信者ではないが、総本山にお参りしても、罰があたることはないだろう。

4月の巡礼の旅を、今から楽しみにして、家内と共に乗馬に精を出している今日この頃である。 (完)

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(97) イトゥー:何かと大袈裟な町

2mもある巨大な公衆電話

巨大な公衆電話

サンパウロ市から州の奥地に向かって北西に伸びる、カステロ・ブランコ街道を経由して、約100キロ走行するとイトゥー市に到着する。3車線の高速道路は、時速120kmで快適に飛ばせるので、約1時間のドライブだ。

イトゥーの特徴は、何といっても物事に大袈裟なことだ。例えば、街のあちこちに巨大な公衆電話や高くそびえ立つ信号機が見られ、食料品店では2メートルもあるチーズが売られている。

このキングサイズが、いつしかイトゥーの代名詞となって全国的に知られるようになり、普通よりサイズが大き目の物を「イトゥーサイズのXX」と称されるようになった。例えば、プロの女性に「あなたのモノは、イトゥー・サイズねっ。」と言われてうれしくない男はいないだろうし、街を歩いている超グラマーな女性を見ると「すげェーな!あのオッパイとヒップ…イトゥー・サイズだぜっ。」と男たちがささやいたりする。

そびえ立つ信号機

そびえ立つ信号機

人口16万人のイトゥーは、過去にはサンパウロ州で最もリッチな町として、栄華を誇った時代があった。海抜600mで、なだらかな起伏を伴ってどこまでも広がる大地と、雨量の少ないトロピカル気候は、大規模な農業に適しており、18世紀にはアフリカから多くの黒人奴隷を導入して、サトウキビと綿花の栽培が大々的に行われて繁栄した。1860年に起きた、世界的な砂糖相場の暴落で、その栄華に影がさした時期があったが、その頃から、砂糖にとって代わって導入されたコーヒー栽培が、イトゥーに新たな繁栄をもたらした。1850年に奴隷の導入が禁止されたため、コーヒ農場の人手を賄うために、ヨーロッパから多くの移民が導入された。最も多かったのはイタリア人で、次いでポルトガル人、ドイツ人らが入植した。現在でも、イトゥーの住民は、その子孫が大半を占めている。

切り売りされる巨大なチーズ

切り売りされる巨大なチーズ

イトゥーに関して特筆すべきことは、ブラジルが、本国ポルトガルから独立する際の舞台裏で、一役買ったことだ。当時、ブラジルに滞在していたポルトガル王室の嫡男、ドン・ペドロ二世は、度々イトゥーを訪れては、当時の権力者だった、大農場主たちと親交を温めていた。そして、度重なる会合から、独立の気運が次第に高まり、1889年、ドン・ペドロをして、本国に対して独立宣言をなさせるに至ったといわれている。市内には、ドン・ペドロ二世が宿泊した邸宅が、記念館として、そのまま保存されている。

1929年に勃発した世界大恐慌のあおりを受けて、コーヒー価格が大暴落したことで、イトゥーの景気は冷え込み、1950年まではゼロ成長の時期が続いた。不景気からの脱却を目指して、イトゥーは工場の勧誘を推進し、タイルや繊維工場が次々と進出してきて、次第に活気を取り戻した。そして、1968年にサンパウロ市と同州の奥地を結ぶ高速道路、カステロ・ブランコ街道が開通したことをきっかけに、その沿線にあって、大都市サンパウロまでわずか100kmと、立地条件に恵まれたイトゥーに、ブラジル内外からさらに多くの工場が進出してきて、現在の経済的安定がもたらされた。

今は無き、往年のコーヒー農場の多くは、土地が小分けになって分譲され、シチオまたはシャーカラと呼ばれる小農園や、高級コンドミニアムに姿を替え、週末になると、大都会の喧騒から逃れて自然を楽しむリッチな人々が訪れる、セカンドハウスや保養地として利用されている。

またヴィラコッポス国際空港まで41kmと、比較的近いことも、イトゥー市民にとっては便利だ。

日本代表が合宿するSPA SPORT RESORT

日本代表が合宿するSPA SPORT RESORT

イトゥーを本拠にする工場の一つに、ブラジル第二のシェアーを持つビール会社、スキンカリオール社があり、2011年に日本のキリン酒造によって買収された。また、自動車部品メーカー、アイシン工業が同市に進出し、2011年から生産を開始して、隣町のインダイアトゥーバ市にあるトヨタ自動車の工場に、部品を供給している。

先週、2014年のサッカーW杯に出場する、日本代表の合宿地にイトゥーが選ばれたことが報道された。予選の組み合わせによると、日本は、レシーフェ、ナタールとクイアバーという、いづれも暑い町で3試合を行うことになったが、イトゥーは前出の3都市と比較しても暑さでは引けをとらないので、無難な選択といえるだろう。合宿に使用されることになったスパ・スポーツ・リゾートは、ブラジルで最も人気のあるサッカー・チーム、コリンチャンスFCが、スランプに陥ったりした際、チーム立て直しのために時折合宿する場所で、イトゥー郊外の閑静な場所にあって、選手が集中するためには好環境にある施設として知られている。ちなみに、このスパ・スポーツは、ブラジル・キリン酒造のビール工場に近い(2km)場所にある。

生ビールが抜群に美味いバール・アレモン

生ビールが抜群に美味いバール・アレモン

イトゥーの街を語るとき、忘れてはならないのはバール・ド・アレモン(ドイツ人のバー)という100年の伝統を誇るドイツ料理の店で、特に生ビールの味は抜群で、下戸でも軽く大ジョッキを干す、といわれる程、喉ごしがいいことで、有名である。料理ではエイスべインという、豚のひざ肉の蒸し物がお勧めだ。

私は年に一度、イトゥー郊外にあるテーハ・デ・サンジョゼー・GCで開催される、シニアゴルフ・オープントーナメントに出場するために同市を訪れる。ゴルフ場は、高級コンドミニアムの中にある、18ホールのチャンピオン・コースで、フェアーウエイに沿って続く高台に、いずれ劣らぬ大邸宅が建ち並び、コースを見下ろしている。

テーハ・デ・サンジョゼーGC

テーハ・デ・サンジョゼーGC

コースはトリッキーで、私にとって相性がイマイチで、まだこのコースでの優勝経験はないが、トーナメントが終わったら必ず訪れる、バール・ド・アレモンの生ビールが、負けた悔しさをいつも癒してくれるので、また翌年、リベンジする気になる。(完)

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(96) ブラジルのベニス、レシーフェ

ブラジルのベニス、水の都レシーフェ

ブラジルのベニス、水の都レシーフェ

サンパウロから2100キロ、リオ・デ・ジャネイロから1900キロ、首都ブラジリアから2000キロに位置するレシーフェは、ブラジル東北部の中心都市で、別名「ブラジルのベニス」と呼ばれている美しい街である。その名のとおり、海抜4m~(-)2mのフラットな地形の市内を、縦横に走る無数の川と運河が、ベベリーベ川とカピバリーベ川に合流し、広大な河口となって大西洋に注ぐ際に、巨大な中洲が形成され、それが街の一部となって、エキゾチックな“水の都”の景観を造りだしている。市内の水路にまたがって架けられた大小の橋は、実に49本を数え、それぞれに名前が付けられている。

レシーフェはペルナンブーコ州の州都で、都市圏の人口は370万人を数え、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロに次ぐ、ブラジル第三番目の大都会である。1958年に国策としてスタートした、ブラジル東北部振興政策によって、税の恩典に浴そうと、南部から大小の企業が続々と同地域に進出し、工場や商業施設を建設した。その中心になったのがレシーフェ市で、半世紀を経た今日、同政策は着実に成果を挙げ、商工業に目覚ましい発展を遂げており、イギリスのリサーチ会社プライスウオーターハウスは、レシーフェ市は2020年には、ミュンヘン、ナポリ、シェンヤンとアムステルダムを抜いて、世界で最もリッチな100都市の仲間入りを果たすであろうと、予測している。

レシーフェで開催される国際的な会議、見本市、イベントの数は、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロに次いで多く、ブラジルと国交のある国々は、レシーフェの重要性を認識している。例えばアメリカは、サンパウロとリオデジャネイロ以外には、唯一、レシーフェに領事館を設置している。

ボア・ヴィアージェンの浜

ボア・ヴィアージェンの浜

「レシーフェ」の名前の由来は、町が大西洋に面して十数キロに亘る海岸線を有しており、それに並行して、あたかも外海から海浜を守るように、サンゴ礁の壁が延々と続いているからで、レシーフェとは、そのサンゴ礁の意である。外海から守られた水域は、波の無い天然プールの状態になり、絶好の海水浴場となる。そんな状態が延々7キロに亘って続くボア・ビアージェン海岸は、海水浴場として最も人気のある海浜で、海に面してズラリと立ち並ぶ高層マンションは、中産階級の住居になっている。ちなみに安全な内海とは対照的に、レシーフェの外洋には危険なサメが多く生息しており、時々犠牲者が出るので、サーフィンは一切禁止されている。

年間を通じての気温は、一月が最も高く、30℃~22℃、もっとも低い7月が、27℃~20℃で、トロピカル気候の常夏の街である。特筆すべきは、この街の背後には、ブラジル大陸の特徴である、海辺からせり上がる海岸山脈が無く、フラットな地形のために、海から吹く風が、滞ることなく内陸に向かって吹き抜けてゆくので、年間を通じて、気温の割には涼しく感じられる。

オリンダの高台からレシーフェを望む

オリンダの高台からレシーフェを望む

この地域が、ポルトガルによって統治されるようになったのは、1537年で、本国から派遣されたヅアルテ・コエーリョ総督によって、現オリンダ市のある場所に拠点が設けられた。オリンダはレシーフェから6キロの場所にあり、高台から大西洋を隔ててレシーフェの街が望め、その眺めは正に絶景である。街の名前もその美しい景観に由来しており、初めて同地を訪れたコエーリョ総督が、丘からの美しい眺めに感嘆し、「オー、リンダ!(何て美しい!)」と思わず漏らしたことから名付けられたという。

その美しいオリンダの街が、心無くもオランダ人たちによって1630年に焼き払われ、占領されてしまう。オランダ人はその後24年間にわたって同地域を占拠し、「ニュー・オランダ」と名付けて植民地化した。彼らは、オリンダの街が、地理的に外敵からの攻撃にもろいと判断し、現レシーフェのある場所に、首都を移した。レシーフェでは、肌が黒くて目が青い(または緑色)人々を、街で見かけることがあるが、それはオランダ人によって占領されていた時代の名残である。

ポルトガルが同地域を奪回したのは1654年で、オランダ人を排斥し、再びオリンダの地に新たに町を建設して、統治の中心地とした。その頃に建設された教会などの建物は、国宝に指定されて今もそのまま保存され、高台から海を臨む美しい風景とともに、観光客のお目当てになっている。

首都が、オリンダから陸海空の交通アクセスに便利なレシーフェに移転したのは1837年で、以後、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロに次ぐ第三の都市、ブラジル東北部の最重要都市として、君臨している。

W杯のゲームが行われるイタイパーバ・アレナ・ペルナンブーコ球技場

W杯のゲームが行われるイタイパーバ・アレナ・ペルナンブーコ球技場

レシーフェは、2014年のサッカーW杯のゲームが行われる12都市の一つで、レシーフェ市から約20キロのサン・ローレンソ・デ・マッタ市に新たに建設された、4万6千人収容の「イタイパーバ・アレナ・ペルナンブーコ・スタジアム」で白熱のゲームが繰り広げられる。ちなみに、去る6月に開催されたコンフェデレーション・カップで、日本代表はこのスタジアムで、3-4でイタリアに惜敗している。そして、来る6月のW杯一次予選の第一戦で、日本は、コートジボワールを相手に、再びこのピッチに立つことが決定している。

レシーフェはまた、「夢の島」フェルナンド・デ・ノローニャ(参照:http://bit.ly/19wWsrm)への玄関口になっており、同島を訪れる観光客は、一旦、レシーフェのグァララぺス空港で乗り換えて、545キロ先の洋上に浮かぶ島に向かって飛ぶことになる。

実は、私はレシーフェには縁がある。ブラジルに到着してすぐに就職した貿易商社で、肉体労働に甘んじていた私は、セールスマンという、社内で最も羽振りのいい人たちに憬れ、言葉を覚えた暁には、セールスマンになってブラジル中を飛び回ることを夢見ていた。そして5年目に、そのチャンスが訪れた。トップセールスマンとして、リオ・デ・ジャネイロ以北の地域を担当していたW氏が、独立してレシーフェに店を出すことになったのだ。彼は、レシーフェの将来性に賭けたのだ。私は、その後釜に登用され、同じ地域を担当することになった。そしてレシーフェを、3か月に一回の割合で訪れた。独立したW氏の店は、レシーフェのメインストリートにあり、「ワコー」という屋号で、日本製のお土産物などを扱っていた。当時、同市には日本人はほとんど住んでおらず、もの珍しさもあってか、結構繁盛していた。その頃、わが社が扱っていた主力商品は、パナソニック社製の小型テープレコーダーで、W氏は、二つ返事でオーダーし、店で取り扱ってくれた。

レシーフェ特産の淡水手長エビ、ピトゥー

レシーフェ特産の淡水手長エビ、ピトゥー

レシーフェに行くたびに、W氏とボア・ヴィアージェン海岸のビアー・ガーデンで、サンゴ礁の彼方に広がるエメラルドの海をながめながら、ジョッキを傾けたものだ。つまみは、いつもピトゥーという体長10~15cmの淡水エビの塩茹でで、エビとカニをミックスした伊勢エビのような、独特の味がした。二人でいつも大きなザル一杯のピトゥーを平らげた。

その後、私は10年勤めた貿易商社から、ユダヤ系ブラジル人の経営する百貨店に転職した。役職はスーパーヴァイザーで、ブラジル全土に有していた12店舗の経営状態を、定期的に訪れて点検する仕事だった。その支店の一つがレシーフェにあり、私は度々同市を訪れ、その度にW氏と旧交を温めた。ところが、それから2年後に、私に目をかけてくれていた社長が、突然心臓麻痺で急逝し、私は間もなく解雇された。それ以来、レシーフェとは疎遠になってしまった。

レシーフェのサンゴ礁を越えて、漁に出かける筏船、ジャンガーダ

レシーフェのサンゴ礁を越えて、漁に出かける筏船、ジャンガーダ

次の就職口が決まらず、あせっていた私は、ある日サンパウロの路上で、バッタリW氏と出くわした。何でも、レシーフェの店の経営状態が思わしくなく、10年目を契機に、サンパウロに引き上げてきて、保険代理店で働いているとのことだった。彼は、私が職を探していると聞いて、「一緒に保険代理店を興さないか?」と誘ってくれた。受諾した私は、それを契機に一貫して自営業の道を歩むことになり、今日に至っている。

私は今でも、自分の運命を開くキッカケになった、ブラジルのベニス、レシーフェのエキゾチックな街並みとエメラルドの海を、折にふれては懐かしく思い出す。(完)

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(95)ブラジル屈指の高級リゾート:ブジオス

リオ・デ・ジャネイロから170キロにあるブジオス

リオ・デ・ジャネイロから170キロにあるブジオス

リオ・デ・ジャネイロから車で、リオ/ニテロイ大橋を渡り、海岸線に沿って東に約170キロ走ると、ブラジルで最も有名なリゾート、ブジオスに到着する。

半島の周囲には23の美しい海浜がある

半島の周囲には23の美しい海浜がある

ブジオスは周囲が8キロの複雑な形をした半島で、23の美しい浜辺があり、赤道から南下する暖流と、南極から北上してくる寒流の交流点になっているので、温かい海水が打ち寄せる浜と、冷たい海水が流れ込む浜があることが、この地域の大きな特徴の一つになっている。入り組んだ海岸線にある浜辺は、どれも甲乙がつけ難いほど美しく、中でもジェリバー、トゥックンス、ジョン・フェルナンデス、フェハドゥーラ、フェハドゥリーニャ、アルマソン、マンギーニョス、タルタルーガ、オッソス、ブラバ、オーリョ・デ・ボイなどが特に美しく、人気がある。ちなみに末尾の2海浜はヌーディスト地域になっている。

ヌーディストたちが憩うブラバの浜

ヌーディストたちが憩うブラバの浜

ブジオスの年間平均気温は24℃で、時期を問わずさわやかでやや強めの風が吹き、同地域は、リオ州では最も年間雨量(750ミリ)が少ない。そのため、外国人たちから、「ブラジルの”サン・トロペ”」と呼ばれ、一年を通じて、世界中から訪れるツーリストたちは後を絶たない。

16世紀に、フランスの密輸業者が、ブジオスを拠点にして、パオ・ブラジル(幹が赤いブラジル特産の材木)を大量に本国に運びだし、17世紀になると、今度はアフリカから多数の黒人奴隷を運んできて、ブラジルにおける陸揚げ拠点とした。彼らは、奴隷導入が禁止された1850年以降も、闇で奴隷を陸揚げし続け、多大な利益を得た。このようにブジオスは、長期に亘ってフランス人によるひんぱんな往来があったが、彼らは、同地を商業ポイントとして活用したのみで、植民地にして住み着くことには興味を示さなかった。

19世紀になってからは、ブジオスの主な住民は漁師たちで、暖流と寒流が交わる、漁業には理想的な海の恩恵によって生計をたてていた。海流の関係で、時期になると多くの鯨が周辺の海を賑わし、それを捕獲した漁師たちは、肉を食用にし、採取した大量の油をブラジル中に売りさばいた。鯨の骨は集めて一つの砂浜に埋められたが、その浜は今日「プライア・デ・オッソ(骨の浜)」と呼ばれ、美しい海浜の一つとして人気を集めている。

1960年代になって、大都会から程よく離れ、閑静で美しいブジオスに目をつけたのが、サンパウロやリオ・デ・ジャネイロの、商工業界で活躍していたエリートたちで、マンギーニョスの浜に、同地では初めての、住宅(セカンドハウス)を、こぞって建て始めた。エリートたちは、この別荘を活用して、国内外の取引先や政治家を招待し、事業を有利に展開することに役立てた。ブジオスの美しさが、それに一役買ったことは言うまでもない。それがきっかけになって、ブジオスは、国内外の上流階級やセレブな人たちが訪れる、高級リゾートのシンボル的存在となっていった。

美しいブジオスの海を眺めるブリジット・バルドーの銅像

美しいブジオスの海を眺めるブリジット・バルドーの銅像

1964年に、当時世界的人気女優であったブリジット・バルドーが、ブラジルに在住していたマロッコス人の恋人、ボブ・ザグリと共にブジオスを訪れ、友人のアルゼンチン大使の別荘に長期滞在した。ブジオスの美しさにすっかり魅せられたバルドーは、本国に帰ってからも、機会ある度に、ブジオスの美しさへの賞賛の言葉を惜しまず、その後、お忍びで、クリスマスをブジオスで過ごすなどして、同地を心から愛した。それを一フランス人記者が世界中にリークし、それがキッカケになって、ブラジル・リオ州の片田舎にある漁村、ブジオスは世界に知られる存在となり、外人観光客が次々と訪れるようになった。当時、訪れる観光客を宿泊させるホテルがなく、人々は漁師たちの家で、民宿しながらブジオスの海を楽しんだという。ちなみに、ブリジット・バルドーが滞在した、元アルゼンチン大使の別荘は、「ポウザーダ・ド・ソール(太陽の宿)」という名の民宿に姿を替えて、今も観光客に親しまれている。

16、7世紀にフランス人たちが、莫大な富を得る拠点となったブジオスが、奇しくも一人のフランス人女性によって、「倍返し」の恩恵を被ることになったのだ。ブジオス市は、それに敬意を表し、砂浜に腰かけて、美しい海を眺めるブリジット・バルドーの銅像を、永久に街に残した。

最も美しい海浜の一つ、カラヴェラスの浜

最も美しい海浜の一つ、カラヴェラスの浜

1976年に、ブジオスがさらに脚光を浴びる事件が起きた。ブラジル映画界で活躍し、上流階級の人たちと広く交際のあった美人女優、アンジェラ・ジニスが、恋のもつれから情夫に殺害され、「オッソ(骨)の浜」で、無残な死体となって発見されたのだ。ニュースは瞬く間に世界中に流れ、高級リゾート、ブジオスの名はさらに広く知られるところとなった。

2002年には、ヨーロッパのある観光雑誌が、「世界で最も太陽と海を楽しめる場所」として、ブジオスを選んで掲載したことで、ヨーロッパにおけるブジオスの知名度は、決定的なものとなった。

特筆すべきは、ブジオスは、上流階級、外交官やセレブな人たちもさることながら、国の内外、何処からを問わず、芸術家、歌手や俳優などの芸能人が好んで訪れる、リゾート地として知られており、街角や浜辺で有名人に出くわすのは日常茶飯事だ。そんな時、ジロジロと見たり、振り返ったりしないのが、ブジオス流のエチケットだ。

ダウンタウンの商店街

ダウンタウンの商店街

ブジオスを訪れた外国人たちは、一様にその魅力の虜になってしまうが、その内、観光で訪れるだけでは飽き足らず、同地に住んで商売を始める人たちが出現しはじめた。中でも、フランス人とアルゼンチン人が多く、彼らによって、ダウンタウンに様々な店や、レストラン、バーなどが次々に軒を並べるようになった。ブジオスの海浜の美しさもさることながら、外国人たちが先鞭をつけた、ダウンタウンのエキゾティックな商店街も魅力的だ。お洒落なブティックや土産物屋、垢抜けのしたバーやレストランなどは、他のブラジルの街とは一風違った、独特の雰囲気を醸し出している。

丘陵から海岸に向けて広がるブジオス・ゴルフクラブ

丘陵から海岸に向けて広がるブジオス・ゴルフクラブ

私は、これまでにブジオスを三度訪れた。二度は、ブラジル・シニア・ゴルフツアーのブジオス・オープンに参加するためだ。ブジオス・ゴルフクラブは、なだらかな丘陵から海岸にかけて広がる18ホールのチャンピオン・コースで、北米のゴルフ場設計第一人者、ピート・ダイのプロジェクトによるものだ。ピート・ダイの手になるゴルフ場は、概して立木がほとんど無く、フェアウエイの両サイドはブッシュで覆われていて、曲がったボールを飲み込んでしまう。大き目のグリーンは、うねりが大きく、例えオンしても、常にスリーパットの可能性が伴う。極めつきは、海岸に近い180ヤードのショートホールで、常にアゲインストの強い浜風が吹いていて、ドライバーで叩いても、ヤットコさ届くかどうかである。私は、この難コースの攻略に手こづり、入賞どころか、二度とも下位に甘んじてしまった。

ブジオスに向かう大型客船

ブジオスに向かう大型客船

三度目は、サントス港からデラックス客船で、大陸沖を北上して終着点、ブジオスに向かう3泊4日のツアーに参加して訪れた。前回二回はゴルフに集中していたので、折角の観光地を何一つ楽しむことなくブジオスを後にしたが、三回目になってその美しい海浜巡りや、エキゾチックな商店街のそぞろ歩きなどで、初めて高級リゾートを心ゆくまで堪能することができた。

船旅といえば、50年前に移民船でブラジルに渡った時は、劣悪な環境の船倉と、重症の船酔でロクに食事もできなかったことが記憶に残っており、いい思い出はなかったが、今回はそれ以来の船旅で、うねりの少ない近海を大型客船で航行したせいか、揺れも少なく、食事もおいしくて、快適な旅を楽しむことができた。

美しいジュケイーの海岸

美しいジュケイーの海岸

実は、ブラジルにはブジオスのように、何かがキッカケになって高級リゾートとして脚光を浴びる可能性のある場所がいくつかある。サントスからリオ・サントス街道を、海岸線に沿って80キロ北上した所にある、ジュケイーという街もその一つだ。規模は小さいが、一昔前のブジオスを忍ばせるような、さしずめ、ミニ・ブジオスといった雰囲気の街だ。モジ・ダス・クルーゼスに住んでいる友人のセカンドハウスがジュケイーにあることから、偶然知ることになったが、美しい海浜、洒落た店々、垢抜けたバーやレストランなどがあって、既に多くの中・上流階級の人たちが、海辺にセカンドハウスを構えている。それからさらに、30キロをリオ方向に進むと、マレジアの街がある。こちらはジュケイーよりやや大きく、ダウンタウンの店の数も多くて、立ち並ぶ別荘の構えはジュケイーの家々より一回り大きい。この街の海はサーフィンに向いているので、遠方から若者たちがこぞって訪れるため、年中活気に溢れている。リオ・サントス街道沿いには、それ以外にも、何かがキッカケになって、将来ブレークしそうな、海が綺麗でお洒落な街があるリゾート候補地が、まだまだたくさんある。(完)

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