(108) 「女・博打・農業」の共通点

 出稼ぎブラジル人たちを対象に、ポルトガル語新聞を発行するために日本に滞在していた2000年、東京で、ブラジル農産物の展示会が催された。特に目的は無かったが、ブラジル関係のイベントということで会場を訪れた私は、たまたま農産物の大手仲介業者「サフラ社」のブースに立ち寄った。中年の社員が一人いて、手持ち無沙汰の様子だったので、腰を下ろして雑談になった。サフラ社に長年勤め、ブラジルの農業には精通しているという同氏は、問わず語りでブラジルの農業について話してくれた。今では近代化された超大型農場がひしめき、ブラジルの主要農産物の中心地になっているセラードは、当時は未開発の荒れ地で、コーヒーや穀物類は、ブラジル全土に散在する個人経営の農場で生産されていた。サフラ社は、それらの農場から農産物を買い集めて輸出しているという。同氏曰く、「ブラジルでは農業で金を残すことは不可能に近い。大きな農場も実情は借金まみれだ」。ひとたび借金をすると、インフレと高金利で、残高がたちまち膨れ上がり、豊作でも相場が下がれば利益は出ず、天候不順や霜などで不作にでもなろうものなら破産はまぬがれないというのが、ブラジル農業の現状だという。その反面で、農業に関わる産業、例えば農機具や肥料の製造業者、農産物仲介業者、農業コンサルタントなどは、それなりに利益をあげているが、農業そのものに携わる者は、女と博打にのめり込むのと同じように、一途に破産への道をたどるという。女と博打は、破産するまでの過程で、結構楽しめるが、こと農業に関しては苦しみの連続で、楽しむこともなく破綻に至るので、中でも最悪だという。女・博打による破産は納得できるが、農業も同じだというブラジル人独特のジョークを交えた説明を、私は半信半疑で聞いていていたが、その話が、間もなく身近で現実のものなろうとは、知る由もなかった。

私の義兄(家内の兄だが、私より12才年下)は、腕のいい眼科医で、ロンドリーナ市内で診療所を開業しており、結構繁盛していた。彼の妻は、パラナ州では名の知れた大農場主の息女であった。折から、田中角栄が来伯し、セラードに魅せられて、日伯共同によるセラード開発プロジェクトが立ち上がった。

広大なセラードと呼ばれる地域

その内容は、既存の農業経営者にセラードの土地を、格安且つ長期融資で提供するという好条件のものであった。そのプロジェクトに魅せられた義兄は、医者をやめて診療所を売却し、義兄(妻の兄)と共同出資でセラードの土地を購入して農業に転身することを決断した。購入した土地は、約280アルケール(1,600万平米)で、前後左右の地平線まで広がる膨大な土地であった。義兄はロンドリーナを引き払って、セラードの一角、バイア州の西に位置するミモーザにある農場に引っ越した。セラードには雨が降らない。土地には小川が横切っていたので、当初はその水を灌漑に活用できる範囲で、綿やトウモロコシを植え付けたが、それだけでは採算が取れない。そこで、銀行融資を受けて、「ピヴォー」と呼ばれる、灌漑設備を導入した。ピヴォーは軸を中心に、無数のシャワーをぶらさげた、長さ500メートルのアームが、時計の針の様にグルリと回転し、半径500mの円形(面積79ヘクタール・東京ドーム17個分)に散水することが出来る。当時は未だ電気がなかったので、小川から水を吸い上げる動力は、重油発電機を使用した。

シャワーを装備した500mのアームが、時計の針の様に回転するピヴォー

計画では、そのエリアにコーヒーを植えるというものだったが、苗木の購入に必要な資金が不足していた。銀行融資の枠は、ピヴォーの購入で使いきっていたので、土地を担保にして、投資家を募ることにした。私にも、家内を通じて投資の誘いがあり、その時初めて義兄の医者から農業への転身ストーリーを知った。何はともあれ、百聞は一見に如かず、私は家内と共にセラードの農場を見学に出かけた。ブラジリアから1時間のフライトで、バイア州の西端にあるバレットスに着く。そこからレンタカーで農場に向かった。農場のあるミモーザまでの200kmが、一つのカーブも無い一直線で(緩やかな起伏あり)約2時間、ハンドルを切る必要が全くなかった。セラードの、ほんの一部分を走行しただけだったが、その規模が、とてつもなく膨大であることを、何となく感じることができた。ミモーザに着くと、初めてわずかなカーブがあり、それから数分で農場に到着した。

そこには、燦燦と輝く太陽の下で、なだらかな起伏を伴った土地が果てしなく続いており、義兄ならずとも、男なら、誰もが壮大な夢を抱かずにはおられない光景であった。私は、開業医という恵まれた環境を捨ててまで、農業に転身した義兄の決断に納得し、彼を誇りに思っただけでなく羨望すら感じた。

地平線まで続くセラードの大地

私は、初めて見る灌漑設備「ピヴォー」のスケールの大きさに目を見張り、雨が降らなくても、年中太陽の恩恵にあずかり、霜の可能性がゼロのこの土地では、コーヒー栽培が成功する可能性は極めて高いと思った。義兄の作成したプロジェクトには、ピヴォー・エリアに少なくとも25万本のコーヒー植樹が可能とされ、当時のコーヒー相場価格と予想収穫量を掛け合わせた試算表と、収穫までに要する期間として3年が計上されていた。一基の「ピヴォー」がカバーする面積は、農場全体の5%に過ぎず、プランの成功に伴って、一基ずつ増やしていく計画とのことであった。それを見て、私は義兄に協力を約束した。そして企画書を手にして東京に戻り、何人かの友人に話をしたところ、2名が興味を示し、投資をOKしてくれた。

一年後、苗木が植えられた時点で、投資した友人二人を伴って、私は、再び農場を訪れた。今回は、ブラジリアからテコテコ(単発の小型機)で、農場に向かった。2時間のフライトで、テコテコはセラードの上空に差し掛かった。驚いたことに、あれからたったの一年しか経っていないにも関わらず、上空から見たセラードは大きく様変わりしていた。去年はピヴォーがポツンポツンと点在していたものが、今では一か所に10、20基がまとまって設置された農場が、あちこちに見られるようになっていた。義兄の農場の上空に差し掛かると、テコテコは大きく旋回し、農場内に造られた滑走路に砂埃を巻き上げて着陸した。

10数基のピヴォーを備えたセラードの大農場

テコテコから見た壮大なセラードのエリアと、群がる無数のピヴォーに感嘆して言葉を失っていた友人たちは、農場の滑走路でエンジンを止めたテコテコから降りて大地に足を踏みしめた時、セラードの限りなく大きな未来を確信したようであった。ピヴォー・エリアには、25万本の苗木が見渡す限りに整然と植えられ、順調に育っていた。それを見た友人たちは、安堵したように、表情をほころばせた。

実ったコーヒー

そして3年が経過し、コーヒーは豊かに実り、全て順調に収穫期を迎えた。唯一の誤算は、コーヒー価格の暴落だった。世界中が豊作で、相場価格は3年前の半分にも満たないものになっていたのだ。採算は3年間で費やした経費とトントンで、利益はゼロだった。コーヒーの相場はそれから3年経っても回復せず、長期融資で購入した土地の支払いは、インフレと利子で支払っても支払っても残高は減らず、3年後には、義兄はとうとう農場を手放すところまで追いつめられてしまった。折から、農場には待望の電気が導入されたが、ピヴォーの数を増やす余裕がなかったので、農場経営が好転することはなかった。農場を手放した義兄は、売却金から借金を清算し、手元に残ったわずかな資金で、鍼医になるべく、修業のために中国に渡った。修業を終え、プロの鍼医として帰国した義兄は、バイア州の州都、サルバドールで小さな診療所を開業した。元々医者だった彼は、鍼医としても有能さを発揮し、どんどん顧客も増えて、診療所経営は軌道にのっていると聞く。十数年に亘って農業に携わった義兄は苦労の連続で、サフラ社の社員が言っていたように、人生を楽しむこと無く破産に至ったが、元医者であったことで、かろうじて人生をたてなおすことが出来たことは、不幸中の幸いであった。(完)

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(107) フジコ・ヘミングに見る高齢者の挑戦

私は、夕暮れ時のメランコリーな時間帯に、水割りを飲みながらピアノの曲を聴くことを、趣味の一つにしている。 以前は「黄昏時のピアノ・シリーズ」のCDを買い集めて聞いていたが、最近はブルー・トゥースで、YouTube musicをホーム・シアターに接続すると、音声だけでなく映像も見れるので、もっぱらその方法で黄昏のピアノ鑑賞を楽しんでいる。

ある日、You Tube で見つけた、有名ピアニスト9名による“ラ・カンパネーラ”の競演を聴いていて、初めて「フジコ・ヘミング」というピアニストの存在を知った。それからインターネットで、さらに詳しく彼女について調べ、その数奇な人生に興味を持った。

曰く「フジコ・ヘミングは、ヨーロッパにピアノ留学をしていた日本人の母親が、現地で知り合い、結婚したスエーデン人男性との間に、1932年にベルリンで生まれたハーフ。幼少期に来日し、6才から母親のスパルタ教育を受けて、ピアニストの道を歩み始める。35才でヨーロッパに渡り、聴力を失うなど、どん底の人生を歩みながらも、ピアノへの情熱を失わず、60才を過ぎて日本に帰国。1999年1月にNHKに「フジコ・あるピアニストの軌跡」でとりあげられてプレイク、あっという間に日本はもとより、アメリカ、ヨーロッパで引っ張りだこのピアニストになった。彼女は“魂のピアニスト”と呼ばれ、その独特の奏法は、多くのピアノ・ファンを魅了してやまない。ちなみに、彼女は17才の時、中耳炎で右耳の聴力を失い、さらにヨーロッパ滞在中に、風邪のために左耳の聴力も失ったが、現在は左耳のみ40%回復している。」

彼女は、87才になった今でも現役で多くのリサイタルに出演し、その優雅なピアノ演奏で、聴衆を魅了しているという。





演奏するフジコ・ヘミング

「ラ・カンパネーラ」の9名競演ビデオがアップされたのは、彼女が83才の時で、9名の中に、もう一人の日本人ピアニスト、辻井伸行(当時27才)が含まれてる。彼は生まれながらの盲目で、その演奏技術は神業ともいわれ、今や世界を代表するピアニストである。 私は、ピアノを弾かないので、演奏技術については全くの無知であるが、二人の演奏は、奏風こそ違え、いづれも耳と心に快く響く。グランドピアノの鍵盤数は88と決まっているそうだが、その同じ数の鍵盤を使って、83才と27才の二人が、甲乙つけがたい見事な演奏を披露していることに、いたく興味をそそられた。

人間は、高齢になると自律神経が衰えるという。すなわち、脳が身体に出す動作の指令と、身体が実現する動作の結果に、高齢になると差が出る。ピアニストの場合、柔らかいタッチと力強いタッチの組み合わせで一つの演奏が成り立っているとすると、80才を過ぎた高齢者になると、脳が指令した柔らかいタッチと、指が鍵盤をタッチする柔らかさに、差が出て当然であろう。ところが、フジコ・ヘミングの、聴く人の耳と心に届く、絶妙の柔らかいタッチは、全く年齢を感じさせず、正に驚異に値する演奏技術であると思われる。

彼女は、どのようにして自律神経の若さを保っているのであろうか?恐らく、日常生活で厳しく自己管理し、毎日の練習を欠かさないことに加え、ピアノに対する向上心と情熱を今でも失っていない、と想像される。

私は、ゴルフをたしなむが、実はゴルフも自律神経の機能が結果を左右するスポーツである。多くの人たち(ゴルファー及び否ゴルファー)は、ゴルフはボールを「遠く」へ飛ばすことを競うスポーツと勘違いしているフシがある。ところが実は、ゴルフはボールを「近く」に運ぶことを競うスポーツなのだ。他の多くのスポーツがそうであるように、「体力」を競うスポーツではないので、高齢者ゴルファーが、若者と対等に戦える、(多分)唯一のスポーツなのである。 ピアノの鍵盤が88と決まっているように、ゴルフのコースは、18ホール、パー72(または71)、距離は最低6000ヤードで、使う道具は14本のクラブと決まっており、年齢に関係なく、同じ条件でプレーする。そのプレーの過程で、「遠く」が要求される打球は、ティーショットと呼ばれる出だしの一打のみで、全打球数に占める割合は、わずか15%(プロは20%)に過ぎない。すなわち85%が「近く」への打球を要求されるのである。自律神経が、重要視される所以である。

例えば、目標とするピン(旗竿)まで100ヤードあるとする。目測した距離は脳に伝わり、脳は身体に100ヤードの距離を打つことを指令する。ゴルフの能力とは、この100ヤードを身体がどれだけ正確に実現できるかどうかなのである。

平均的なアマチュア・ゴルファーのスコア-(全打球数)を90打とすると、150ヤード以下の距離を打つ割合はその約70%で、さらにその半分は、パターと呼ばれる、グリーン上で20ヤード以内を転がす打球である。すなわち、ゴルフに「力」は必要ないのだ。身体能力が衰えた高齢者でも、自律神経の若さを保っていれば、若年ゴルファーと、対等に戦えるスポーツなのである。

Torneio ABGS 27/03/2015 – Campeção Scratch

 私が、このことに気付いたのは65才を過ぎてからで、それ以降、平均スコア-にほとんど変わりがなく、ハンディキャップも30台の頃と変わっていない。お陰様で、自分より30~40才も若いゴルファーたちと対等に、プレーを楽しんでいる。

私が、フジコ・ヘミングに共感するのは、彼女の生き方こそ、私が求める理想の高齢者の姿であるからだ。それは、日常生活での自己管理を怠らず、毎日の練習を欠かさず行い、常に向上心と情熱をもって、高齢者の可能性に挑戦する姿勢である。

ゴルフでの快挙の一つに「エイジ・ショット」というのがある。18ホールを自分の年令と同じかそれ以下のスコア-で回ることで、私は74才で最初の「エイジ・ショット」を達成してから、その後4年間で47回ゲットしている。しかしこれはあくまでも進行中の数字であって、ぜひ100回を達成したいものだと思っている。

池が多く正確なショットが要求されるグアルジャー・ゴルフクラブ’

私は、アマゾンで購入したフジコ・ヘミングのCDを、車にセットしっぱなしにして、キーを回すと曲が流れだすようにしている。朝、ゴルフ場に向かうとき、その帰り道、彼女の奏でる「ラ・カンパネーラ」やショパンの「ノクターン」を聴きながら運転している。87歳のピアニストの演奏に励まされながら、いつまでもエネルギーを失わずに、彼女の年までに、果たして何回のエイジ・ショットを達成できるかを楽しみにしながら、チャレンジし続けようと思っている。(完)




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(106) 歴史は繰り返される

つい最近の話である。私は今まで知らなかった初期の日本人移民に関わるある事実を、偶然知ることになった。

最初の日本人移民781名が、笠戸丸でブラジルに到着する1908年に先立って、前年の1907年に、ブラジルへの移民送り出しを計画していた、日本の新興移民会社・皇国植民合資会社の業務担当員であった水野龍が、事前調査のためにブラジルを訪れた。水野は、チリーに渡航する予定で同船していた鈴木貞次郎(当時27才)を説得して、ブラジルに同行せしめ、後の日本人移民のためのシミレーションとなる現実の労働体験をさせるために、彼をコーヒー農場に置き去りにして帰国した。農場で様々な体験をした鈴木貞次郎は、その後一年に亘って、それを逐次水野に報告する任務を果たした。

私が知るに至った事実とは、最近、偶然読む機会があった、鈴木貞次郎が残した“椰子の葉風”というエッセイ集に、彼が体験したコーヒー農場に於ける過酷な労働の実態と給料システム以外に、健康を損なう害虫や毒蛇の話、それにマラリアなど風土病に関する注意事項などが記されていたことである。 翌1908年1月に再びブラジルを訪れた水野龍は、サンパウロ州政府と、日本人移民の受け入れに関して合意するに至り、同年6月に第一回の移民がブラジルに上陸する運びとなった。 問題は、第一回移民を含め、初期の移民たちには、鈴木貞次郎がレポートした筈の、ブラジルのコーヒー農場における過酷な労働の実態、給料システム、風土病などに関する情報が伝えられた様子はなく、移民募集に当たって、“金の成るコーヒー樹” や “一攫千金“など、移民の興味を煽る内容のみに終始していたことである。その理由として、移民会社の最大の目的は、”移民を送りだすこと“であって、その後の移民の現地における ”安全“、”成功“、”幸せ“ などは、考慮の対象ではなかったのではなかろうかということが、勘ぐられてならない。

移民会社は、”会社“ である以上、営利を目的にするのは当然であるが、その営利とは、”移民を一人送り出してナンボ“ であったことが想像される。その ”ナンボ“ は、何処の、誰から、 いくら、提供されていたかということは、どこにも記録がなく、永遠に明かされることのない裏の話なのであろう。その結果、移民たちはブラジルで、思いもよらなかった厳しい現実に遭遇して戸惑い、悲劇さえ生むことになる。ちなみに、ブラジルに渡った日本人移民は戦前戦後を通じて32万人を数える。

そんな歴史が、ほぼ一世紀を経た1990年に、再び繰り返されることになろうとは、誰が予測したであろうか?

1990年、当時、バブル景気の最盛期にあった日本は、ほとんどの製造業において生産が追い付かず、人手不足に窮していた。それを補うためには、外国人労働者の受け入れが急務であったが、安易に門戸を開放すれば、世界中からあらゆる人種の労働者が押し寄せて収拾がつかなくなる。そこで、政府が目を付けたのは、海外に在住する日系人だ。日系人なら職場でも違和感が少ない。そして、世界で最も外国人にガードが固いといわれる日本の入国管理法が改訂され、外国人であっても、3世までの日系人であれば、日本で正規に就労できることになった。

それを受けて、人手不足に悩んでいた企業は、こぞって日系人の採用に名乗りをあげた。海外で日系人が最も多く在住している国といえば、ブラジルである。現地の日系新聞は連日のように、2~3ページが求人広告でビッシリ埋められた。それらの広告には、業種や職種についての詳しい記載はなかったが、“工場勤務で月収2千ドル”と記されていた。当時、ブラジルでは大卒の初任給が500ドル程度だったので、日本での就労は、日系人たちにとって充分に魅力的であった。「給料の半分が貯蓄できたとして、一年で1万2千ドル、3年働けばOOドルが貯まる」そんな単純計算をした日系人たちは、アパートを買う、農地を拡大する、店を持つ、大学の学資にする、借金を返済する、などなど、それぞれの夢を抱いて、雪崩をうつように日本へ向かった。いわゆる“出稼ぎブーム”の到来である。

さて、日系人が就労するまでのプロセスであるが、求人広告だけで、日本の企業と日系人たちをドッキングさせることは不可能で、日系人との面接、日本への送り出し業務を行う、ブラジル在住の代理人の存在が不可欠である。それに適していたのは旅行会社であったが、それ以上に適任者だったのは、日系人社会で顔の広い立場(要職)にある人たちであった。そんな人たちが代理人を引き受けて、日系人の送り出しに手を染めた。一世紀前の、移民会社にあたる存在である。そして“先ず送り出しありき”の歴史が、再び繰り返されることになるのである。

代理人たちは、手当たり次第に日系人と面接して、日本企業に送り込んだ。その際、はたして“工場勤務で月収2千ドル”以外に、仕事の内容、宿舎などについて、詳しい情報が提供されたであろうか?甚だ疑問である。というのは、代理人たちは、一人送り出す毎に自らの懐が潤ったのである。その相場は、一人当たり10万円(1千ドル)だったといわれている。就労を躊躇させるようなネガティブな情報は、知っていても提供が控えられたであろうことは想像に難くない。例えば、ブラジルで最も日系人が多い町の一つ、モジ・ダス・クルーゼス市から5万人の日系人が、複数の代理人を通じて、日本に送り出された。それらの代理人の手に渡った“送り出し手数料”は、実に5億円にものぼるが、それは何処にも記録が残らない裏の話である。

日本に着いた日系人たちは、先ずその仕事の内容に驚いた。それらは通称“3K”と呼ばれる“汚い・キツい・危険”な仕事ばかりであったからだ。次に宿舎のクオリティーに落胆する。六畳一間に4~5人を詰込む所などはザラであった。というのは、それまでの日本では、外国人に対して就労ビザは発給されなかったが、モグリで不法就労していた外国人たちが多くいた。彼らは、不法という弱みがあったので、劣悪な条件による雇用に甘んじていた。雇用する企業側では「外国人労働者は劣悪な条件でも大丈夫」ということが、いわば常識化しており、日系人たちは不法就労ではなかったにも関わらず、その悪習のトバッチリを受けたのである。日系人たちにとって、唯一の救いは、約束の月収2千ドルが、一部の例外を除いて、企業に遵守されたことである。

こうして、出稼ぎとして日本に渡った日系人の総数は35万人と言われており、奇しくもブラジルに渡った日本人移民の数とほぼ同じである。いづれの場合も、移住者たちは数々の苦難を乗り越え、目的を達成して帰国した人たちもいれば、そのまま永住した人たちもいる。

私が述べたいのは、歴史が繰り返されたことに興味を覚えたということであって、移住の仲介人を弾劾することでは、決してない。何故なら、彼らの存在なくしては、移民も出稼ぎも存在しなかった訳で、ひいては私という人間の移民人生をも否定することにもなるからだ。(完)

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(105)ゴルフ場の運営形態は異なってもゴルフ文化は世界共通

ゴルフ場の運営形態は様々で、同じ国でも、クラブ形態、パブリック形態、会社形態などがある。世界的に、どの形態のゴルフ場が最も多いかという話になると、多分、クラブ形態のゴルフ場が多いのではなかろうか。

また、一口に “ゴルファー” といっても、様々なゴルファーが存在する。例えば、プロゴルファーは別格としても、アマチュアでは、ゴルフに向上心を持って取り組み、切磋琢磨するアスリート・ゴルファー、スコアーにこだわらず、趣味や健康のためにゴルフをする散歩ゴルファー、接待のためにゴルフをするビジネス・ゴルファー、賭けゴルフが大好きなギャンブル・ゴルファー、コンペ好きの親睦ゴルファーなどがある。

北米には、クラブ形態のゴルフ場、パブリック・コース、コンドミニアム・コースなどあるが、リゾートホテルに併設されたゴルフ場は、総じて会社形態である。また大学がゴルフ・コースを所有しているケースも結構あるという。

ブラジルはというと、クラブ組織が主体であるが、北伯ではリゾート施設が所有するゴルフ場など、会社組織のコースも存在する。サンパウロ州では、最近になって、コンドミニアムの中にゴルフ場を造設して、住民がプレーするスタイルが出始めている。

日本は、営利を目的とした会社組織のコースが大半を占めているが、パブリック・コースも結構たくさんある。

しかしながら、運営形態こそ違え、ゴルフ・コースそのものは(レイアウトは異なるが)、18ホール、パー72(もしくは71)、距離は6000ヤード以上が基準で、世界中どこのゴルフ場であろうが大差はない。

ゴルフ・コース レイアウトの一例

何処の国の、どんな形態のゴルフ場に行こうが、プレーをするプロセスは、ほぼ同じである。ゴルファーたちは、スタート時間の約一時間前にクラブに到着してキャディーバッグを手渡し、チェックインした後、ドライビング・レンジや練習グリーンでウオーミング・アップをし、スタート時間の5分前に1番ホールのティーグラウンドに赴く。順番がきたら、自分のカテゴリーのティーマークからプレーを開始し、2、3番ホールと順次進行していく。約4時間の行程を、世界共通のゴルフ・ルールに従って速やかにプレーし、18番ホールで終了する。このプロセスは、プロ、アマチュアに関係なく、全てのタイプのゴルファーに共通しており、適用されるルールもまた同じで、世界共通のものである。ちなみに、ゴルフで頻繁に使われる用語、例えば各ホールの結果を表す:ボギー、パー、バーディー、ゴルファーたちの夢の快挙:ホールインワン、エイジショット、アルバトロス、打ち方に関する:アドレス、スタンス、グリップ、スイング、道具の名称:ドライバー、パター、コース内の箇所を示す:ティーグラウンド、ラフ、バンカー、グリーン、オービー(OB)などは、どの国でも母国語に翻訳せず、そのまま使用している。すなわち、ゴルフ場の運営形態は異なっても、ゴルフ文化は、世界共通なのである。私はこれまで数か国に亘って数多くのゴルフ場を訪れたが、ゴルフをプレーするプロセスはどこでも同じで、一度としてトラブったり戸惑ったりしたことがない。

アスリート・ゴルファーを自認している私を含め、多くのゴルファーたちとって、ゴルフ・コース以外の設備、例えばレストラン、ロッカー、シャワー室、プロショップなどは、全て付随設備の認識で、余り関心がない。唯一こだわりがあるとすれば、ドライビング・レンジの存在であろうか(私は、ドライビング・レンジの無いゴルフ場には行かない)。

ドライビング・レンジ (打球練習場)

ゴルフ場の価値は、コースのクオリティーにある。コースのレイアウトもさることながら、フェアウエイとラフに加え、特にグリーンのメンテナンスの良し悪しで、ゴルフ場の評価が左右されるが、実はそのクオリティーに関しては、ピンからキリまである。

私は、ブラジル以外では、北米、日本、韓国、メキシコ、ポルトガル、イギリスのゴルフ場でプレーした経験があるが、どの国にも一流と二流のゴルフ場が存在し、そのカテゴリーによってグリーンフィー(プレー費)の金額に差がある。しかし、その価値評価は、あくまでもゴルフコースのクオリティーであって、レストランの質、テニスコートやプールの有無など、ゴルフコース以外の要素で評価されることはない。

メンテナンスが行き届いた日本のゴルフ場

日本のゴルフ場の運営形態は、世界から孤立化していると、揶揄されることがある。世界中で最も多いゴルフ場スタイルである、利益を目的としないクラブ形態と比較しての話であろうが、確かに会員権と称しながら、会員がプレーするたびにグリーンフィーを徴収したり、会員の家族に恩典がなかったりする営利目的のシステムは、外国で、クラブ組織のゴルフ場に慣れている人たちは違和感を覚える。しかし、ビジターの立場からすると、世界中のゴルフ場と、何ら変わるところはないばかりか、良い面すらある。例えば、外国人を日本の標準的なゴルフ場に招待した場合、多分ほとんどの人が満足する。その最大の理由は、営利事業であるがために、コースのメンテナンスが行き届いていることと、スタッフのサービスの質が高いことにある。ゴルフ・コース以外の設備に関していうと、風呂があったり、コンペ好きの日本人用にコンペ・ルームがあったり、日本の文化が取り入れられているが、外人ゴルファーたちにとって、それらは何ら差し障りのあるものではなく、逆に、充実したロッカーやセフティーボックスなどは、好感をもたれる。ハーフで昼食をとることが義務付けられている点に関しては、中には違和感を抱くゴルファーがいるかと思うが、実は、彼らがもっと違和感を抱くのは、ハーフの昼食で、生ビールを飲んでいる日本人ゴルファーがやたらに多いことだ。

ハーフで待ち時間が長いことに関しては、フロント・ナインで好調だったゴルファーは、その勢がそがれる面もあるが、その反面で、前半で不調だったパターを、待ち時間にしっかり修正して、ゲームを盛り返すこともあるので、考え方次第では、良し悪しである。ちなみに、グリーンフィー(プレー費)の清算は、諸外国では前払いだが、日本のゴルフ場に限って後払いである。

日本のゴルフ場の豪華なクラブハウス

ゴルフ場とは思えないクラブハウス

日本には、2000以上のゴルフ場があるが、中には、山岳コースで、地形が悪く、極端なアップダウンと、アンジュレーションで狭いフェアーウエイに覆われた、せせこましいゴルフコースが無くはない。しかし、それとて日本のゴルフコースが総じてクオリティーが低いとの評価になるには至らない。日本のコースは、外国のコースに比べて、相対的にやや雄大さに欠ける面はあるが、それでも関東平野にある名門コース、武蔵カントリー、相模原カントリー、茨木カントリーなどのように、フラットでフェアーウエイも広く、世界に誇れるチャンピオン・コースが数多くあるし、静岡県の富士山麓にある、太平洋クラブ御殿場コースや、富士小山カントリーなどは、コースも一流だが、富士山が仰げるようにレイアウトされた景観が、ことの他すばらしい。

富士山を臨みながらプレーするゴルフ場

ブラジルには、117カ所のゴルフ・コースがある。名門ゴルフ場といえば、リオのガヴェアGC, 五輪のために造設されたオリンピック・コース、サンパウロには、サンパウロGC, サンフェルナンドGC などが知られているが、近年、東北伯に、次々とオープンしたリゾートホテルに併設されたゴルフ・コースは、北米の有名なコース・デザイナーたちによってレイアウトが手掛けられた、すばらしいコースが数多くある。私は、ブラジル・シニア・ツアー(年間16試合)に2005年から10年間参加して、北はバイア州、南はリオ・グランデ・ド・スール州に至るまで、30数カ所のゴルフ・コースを転戦してプレーしたが、国土が広いブラジルのゴルフ場は、総じてゆったりとレイアウトされているように感じる。

バイア州コマンダツーバ・ゴルフクラブ

リオ・デ・ジャネイロのオリンピック・ゴルフ・コース

北米には、14,000のゴルフ場があるといわれているが、私と友人たちは、毎年10月頃に、フロリダ州のオーランドに10日間程滞在して、5,6カ所の異なるゴルフ・コースを転戦する“ゴルフ漬けツアー”を実施することを恒例にしている。フロリダのゴルフ場は、どれも雄大で、メンテナンスが行き届いており、特にグリーンはスピードが一味違っていて、戸惑うことがあるが、どのコースでプレーしても、深い満足感を覚える。さすがは、ゴルフのメッカ、大国アメリカのゴルフ場だと、毎年、行くたびに感動させられる。(完)

フロリダの雄大なゴルフ・コース

デズニーランドのマグノリア・コース

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(104)アマゾン河の大物怪魚たち

ゴルフ友達から、アマゾン河の魚釣りに誘われた。何でも、素人でも20~30キロの大物が釣れるという。以前から釣り好きの友人たちに、釣りあげた鱸や黒鯛の大物を抱え、喜色満面の写真をスマホで見せられるたびにうらやましく思い、自分も一度は大物を釣り上げる感動を味わってみたいものだと思っていた。

実は、私は昔から乗り物に弱く、船で沖合にでる海釣りなど、考えただけで頭がクラクラするくらい船酔い恐怖症なので、大物釣りは半ばあきらめていた。

ところが友人曰く、アマゾン河は、波がないので船酔いの心配は全くないという。その一言で、あきらめかけていた大物を釣り上げるイメージが浮かび上がり、アドレナリンがジワリと湧き出てきて、即決で参加を決めた。

昨年6月、釣りには最適といわれる乾季を選んで、男ばかり8名で勇躍釣りツアーに出発した。早朝にグアルーリョス空港を出発し、2時間半のフライトでクイアバ-に着く。そこから飛行機を乗り替え、さらに一時間半飛ぶと、アルタ・フロレスタル空港に到着する。

アルタ・フロレスタルはマットグロッソ州の北端にある町で、先端が食い込むような形でアマゾン州にはみだしている。空港から出迎えのバンで30分ほど郊外に向かって走ると、小さなローカル空港に着く。空港では、テコテコと呼ばれる、2機の小型単発機が待機していた。

単発機テコテコ

4名づつ、二手に分かれて乗り込んだテコテコは、間もなく舗装していない滑走路を、砂埃を巻き上げながらふわりと離陸した。しばらくすると、窓から見える下界は、視界の果てまでがアマゾンの原始林だ。緑のジャングルを、銀色の蛇が這うように曲がりくねった川が流れている。幸い、空は雲一つない快晴で、低空飛行をするテコテコの窓から、下界の景色が、手に取るようにはっきりと見える。

見渡す限りの原始林と河

それから約一時間後、テコテコは下降を始め、ジャングルが急速に眼下に迫って来た。突然、森林をそこだけ切り取ったような細い滑走路が現れ、機は軽いショックとともに、砂ぼこりを巻き上げてランディングした。テレス・ピーレスのローカル空港である。テレス・ピーレス地区一帯は、ブラジルの原住民・インジオの特別保護地域に指定されており、一般人が足を踏み入れるためには、許可証が必要だ。出迎えの車で、ポウザーダ・マンテイガのロッジに向かう。

釣り宿・ポウザーダ・マンテイガ

宿泊するポウザーダ・マンテイガは、テレス・ピーレス川べりに建てられたシンプルな造りのロッジで、宿泊、食事は元より、釣り船、釣り道具、餌、ガイドなど、魚釣りに必要な一切の世話をしてくれる釣り宿である。

翌朝の起床は午前5時、外は未だ薄暗い。食堂で朝食をとった後、川に張り出した桟橋に降りて行くと、ヤマハのモーターを搭載した、スマートなアルミ製の釣り船が用意されていた。

ガイドは原住民インジオの青年で、にこやかに迎えてくれる。大物との出会いを祈念しながらパートナーの親友、フェレイラ君とボートに乗り込んだ。この時点では未だ、本当に獲物がかかるかどうか半信半疑で、フェレイラ君に「若し僕が釣れなかったら、君が釣った魚で写真だけを撮らせてくれ。」と、マジで頼んだりしていた。

Teles pires 1

テレス・ピーレス河の夜明け

水平線から太陽が顔を出したのを合図に、船は静かに川へと滑り出していった。

テレス・ピーレス河は、数あるアマゾン河の支流の一つで、全長1500キロ、川幅は1キロにも及ぶ大河だ。川面にさざ波が立つピーレス河を、ボートは第一の目的地に向かって疾走していく。快適だ。これなら船酔いすることはない。太陽が完全に姿を現し、空が明るくなり始めた頃、目的地に到着した。緩やかにカーブを描く川の奥まった場所だ。波は無く、ボートは揺れない。

ガイドが餌付けをしてくれた釣り竿を受け取り、イチニッサンで、思いっきり遠くに投げ入れる。3回目の投てきで、当りが来た。比較的静かな当りだったが、竿を引っ張ってもビクともしない。ガイドに目をやると、「デカイ」というように目配せしてくる。それから30分は、魚との格闘だ。やっと水面に姿を現した魚は、肌が黄色い大物だ。ガイドの手助けで、やっとこさ船に引っ張り上げた。なんと、魚市場で売られていて馴染のあるジャウーだ。重い。優に10キロはある。フェレイラ君にスマホのシャッターを切ってもらって、遂にこの手で念願の大物を釣り上げたことを実感し、感動がジワリと沸き上がってきた。

Teles Pires 8

ジャウー(美味な白身魚・魚市場でも売られている)

それから5~6回、ガイドに導かれて穴場を替え、私たちは、次々と大物を釣り上げていった。興味深かったのは、場所によって釣れる魚が異なることだ。次はどんな魚が釣れるのか楽しみで、時間の過ぎるのを忘れ、気が付いた時には、既に川面には日没が迫っていた。

カショーラ(犬魚・鋭い牙にご注目)

アルマウ・チグレ(紀元前の姿のまま生存)

ピラニア (ピラニア風の顔)

ツクナレー

バルバード

アマゾン河の魚の当りは、ググーッと引くのではなく、ジワーっとー引く感じだ。引っ掛けたあとの重さはハンパではないが、必死で抵抗するでもなく、なすがままに引き上げられてくる。釣れた魚は、写真を撮ると、全て川にリリースしてやるが、彼らはそのことを知っていて、無益な抵抗をしないのかも知れない。

Teles pires 2

テレス・ピーレス河の黄昏

3日間に亘って、太陽が昇る時間から日没まで、昼食の休憩時間を除いて魚釣りに没頭し、数えきれないほどの大物や、見たこともない怪魚を次々と釣り上げた。

Teles Pires 3

人懐っこい蝶々

あっと言うまに三日が過ぎ、達成感とともに、心から満足して帰路についた。(完)

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(103) ブラジルの人種差別について

北米では、ことある度に白人と黒人の人種差別が取りざたされ、問題提起が繰り返されている。同じ多民族国家である、南米のブラジルにおける人種差別問題は、どうなのであろうか?史実に加え、この地に苔が生えるほど永く住みついている者としての私見を交えて、レポートしてみる。

結論から言うと、北米人とブラジル人との人種差別意識の違いは、極めて顕著であるといえる。その根本的な原因は、両国の建国ベースとなった初期移民が、一方はアングロサクソン、他方はポルトガル人であった所にあり、後世に顕著な違いを及ぼしていったと推察される。

ポルトガルからブラジルへの移民は、14~16世紀に10万人、17世紀に入って60万人が記録されており、そのほとんどがポルトガル北部の貧農階級に属する独身男性たちであった。彼らが到着した新天地には、既に先客がいた。原住民のインジオたちである。ポルトガル人たちは、ほぼ無抵抗のインジオたちを奴隷化して労働力とし、当時ヨーッロパで珍重されていたパオ・ブラジルという木材を原始林から搬出する作業に活用した。インジオの活用は、労働力のみにとどまらず、インジア(女性)は、独身男性のみだった移民たちのセックスの対象となった。情況的に、移民たちがインジアをセックスの対象にしたことは理解できるが、インジアには「来るものを拒まず」の文化があったことと、元来ポルトガル人はスケ兵衛な民族であったことも、一つのファクターとして見落とすことはできない。

さて、元々が狩猟民族であったインジオたちは怠け者が多く、労働力の活用には不向きであったことから、17世紀なって、移民たちの活動の場が、単純な原始林の伐採から、サトウキビ栽培など多大な労働力を必要とする農業に推移していったことにともない、アフリカから黒人奴隷が大量に導入されるようになった。同時期にブラジルに導入された黒人の数は、150万人を超えたとされている。17世紀ごろまでにポルトガルから来た移民総数が70~80万人だとすると、当時ブラジルの人口は、黒人が2/3を占めていたことになる。その後も黒人奴隷の導入はますます活発になり、19世紀までに導入された男女の黒人奴隷の総数は、実に480万人に及んだとされている。

インジオたちと比較して、労働力としてはより優れていた黒人奴隷たちを活用して、サトウキビ、コーヒーなどの農業に加え、金銀銅など鉱産物の発掘で顕著な発展を遂げていった移民社会は、その一方でセックス面でもその好色ぶりを大いに発展させ、その対象をインジアから黒人女性に拡張していった。すなわち、後世のベースとなるその時期のブラジルは、男女関係に関しては、情況的にも情緒的にも、人種差別は存在しなかったといえる。その結果、後のブラジルの大きな特徴の一つとなっている、”混血児”が大量に誕生することになる。

19世紀になって、ブラジル人口の黒人化に憂慮したポルトガル政府は、ブラジルにポルトガル人女性を送り込むために、急遽国を挙げて移民希望者を募った。その条件は、出生、社会的環境、容姿、職業を問わず、子供を産める健康体であればOKというもので、質より量のコンセプトで適正と判断されてブラジルに送られた女性たちの中には、生活困窮者や娼婦たちが多く含まれていたという。

その後、1888年の奴隷解放にともなって、労働力の代替えとなる移民を受け入れる必要性にせまられたブラジルは、一石二鳥で人口の白人化をも一気に推進すべく、自国のみならず、ヨーロッパ全域から白人移民の導入を積極的に推進した。(当時、黄色人種は受け入れ対象外であったが、ブラジル移住に最も積極的であったイタリア人たちが、奴隷にも等しい過酷な労働条件を自国政府に告発し、イタリア政府がブラジル移住を禁止したために、急遽東洋人にお鉢が回ってきて、日本からの移民が受け入れられるようになった。)

このようにして、人種のルツボといわれる人口2億人を有する、今日のブラジル人のベースが形成されていった訳である。現在の人種別内訳を見ると、白人47.5%、パルド(褐色)43.4%、黒人7,5%、黄色人種,1,1%、インジオ0,4% となっている。

これをみると、人口の半分は白人が占めているように感じられるが、問題はその仕分け手法にある。その手法とは、自己申告によるもので、DNA検査などの第三者による科学的な仕分け法ではない。一見肌が白っぽい人は“白人”と申告する。パルド(褐色)は白人と黒人の混血で、肌色のバリエーションが、薄茶色からこげ茶色までの人たちが、パルド(褐色)と自己申告する。黒人とは、北米に多く見られる肌がほぼ真っ黒の人たちということになる。

それでは何が問題なのか。それは”白人“にある。ブラジルの肌が白い人たちには黒人の血が混ざっている可能性が極めて高いのだ。それは前述の歴史経過を鑑みると、容易に理解できる。昔、何かの小説で、北米の白人女性が、自分の血に何代か前に黒人の血が混ざっていたことを知り、悲嘆の余り自殺するというくだりを読んだことがあるが、ブラジル人で、そんなことで悲しんだり、ましてや、自殺をする人などは皆無である。それは、ブラジル人の元祖であるポルトガル人は、混血に関しては全く無頓着であったことに因している。彼らはインジオに始まり、黒人、さらに世界中からやってきた移民たちと、人種に全くこだわることなく交わり、混血児を生み出してきたのである。それがブラジルの史実であり、文化であるともいえる。そんなブラジル人たちが、黒人を差別視する根拠などある訳がない。それは、自らの食器皿に唾するようなものであるからだ。そんな国に世界からやってきた移民たちは、いつの間にかその文化に感化され、ユダヤ人や日本人など、元来混血を良しとしなかった人種までが、次第に他の人種との混血に対する抵抗力を失っていく。

ブラジルを訪問した日本人が、白人を見ると、「どこ系の方ですか?」とよく質問する。それに対する回答は十中八九、「解りません」である。あえて正解があるとすれば「イタリア20%、ポルトガル25%、ドイツ15%、黒人が5%、あとは不明」ということにでもなるのであろうが、取り敢えず「解りません」の回答となるので、問った日本人の方は、不可解な顔をする。

ブラジル人は、黒人(または褐色)に対して、「ネギーニョ(黒チャン)」もしくは「バイヤーノ(バイヤっ子)」と呼んだりする。それには差別的な意味合いはなく、単に身体的特徴を表現した愛称的な意味でそう呼ぶ場合がほとんどだ。日本人を「ジャポネース」、金髪の男性を総じて「アレモン(ドイツ人)」と呼ぶのも同じことだ。私も、当初は「ジャポネース」と呼ばれると、差別されているように感じてカチンと来たものだが、そのうち全く気にならなくなった。それどころか、ジャポーネスがこの国で、最も愛されている人種の一つであることを肌で感じるようになっていった。ブラジルは、間違いなく、日本人(もしくは日系人)が、世界中で最もデカイ顔をして生きている国である。事実、日系人はブラジル社会ではモテる存在である。勤勉な日系人男性と結婚すると、将来の安定が得られるとして、日系人を狙い撃ちする白人女性が少なくないという。また、結婚すると旦那を尻の下にひきたがるブラジル人女性より、控え目な日系人女性を好むブラジル人男性が結構多いそうだ。その結果、最初の移民到着から一世紀を経た、今日の日系人社会では、既に6世が誕生しているが、その混血比率はというと、2世がわずか6%であったものが、3世になると42%、4世では60%と、右肩上がりに急増している。このペースでいくと、次世紀には純血の日系人は多分居なくなるであろうと思われる。

ブラジルでは、法律で、明確に人種差別が禁止されており、その行為または言動が告発されると罰金または禁錮刑に処される。すなわち「建て前」的には、人種差別は存在しないが、ブラジルに長く住んでいると、時たま黒人(または褐色)に対する「差別のようなモノ」を感じることがある。

しかしそれは、白人が黒人を差別するのではなく、黒人(または褐色)の人たちが、自らを差別しているように感じられるのである。一例をあげると、定職につかず、長年に亘って不安定なゴルフのキャディーをしている褐色青年に、「何故、キャディーの仕事に甘んじているのか?」と聞いたことがある。答えは「黒人で、貧乏な自分に定職のチャンスは少ないから。」であった。キャディーの彼は、結構気が利いていて賢くみえる青年であるが、黒人にはチャンスがないと自らを差別し、向上心を放棄しているように感じられた。その一方で、向上心のある黒人(または褐色)は、あらゆる分野に台頭して活躍している人たちも多い。結論からいうと、黒人(または褐色)の人たちは、白人に比べて向上心の希薄な人たちの割合がずっと多いと思われる。では、その違いは何処に原因があるのだろうか?

19世紀末期に奴隷が解放され、白人移民が大量に導入された。概して移民というのは、裸一貫から何かを掴み取ろうとする向上心の塊のような人たちである。彼らは、先住のブラジル人たちと密接な関係を保ちながら、ブラジル社会に同化して一歩一歩その立場を向上させていく。問題は、彼らが現地で関係を保ったのは、先住の白人たちであって、奴隷から解放されたばかりの黒人たちでは無かった所にある。奴隷生活の、筆舌に尽くしがたい辛苦から解放された黒人たちにとって、自由を得た後の生活は決して生易しいものではなかったと思われるが、奴隷生活のそれと比べると、解放後の貧苦など、彼らにとって如何ほどのものであったろうか。奴隷解放によって、黒人たちは生半可な向上心で得られるものより、はるかに大きな「自由」という宝物を手に入れた訳で、その満足感と歓喜度は、死んでもいいほど大きなものだったことは、想像に難くない。一方で、白人の新移民たちが、ゼロからのスタートで、向上心に胸を膨らませて前進しようとしている時、同じようにゼロから再スタートした黒人たちは、既に大きな満足感と達成感にひたっていたのである。このスタート時点における白人と黒人の意識の違いが、今日まで後を引いていると思われてならない。

ブラジルには「ファヴェーラ」と呼ばれる、スラム街が国全土に存在する。その形体は、奴隷から解放された後に、黒人たちが寄り集まって作ったコミュニティーが原型であるといわれている。住民の大部分は黒人(または褐色)で、所有者が不明な土地にバラック建ての家屋をビッシリと築いて小さな村を完成させ、電気は街路の電柱から勝手に引き込んで使用している。そんな村が次第に大きく膨れ上がり、リオ・デ・ジャネイロには、人口が30万人を超える巨大な「ファヴェーラ」まで存在する。住民たちの結束は固く、互いに助け合いながら、住み心地の良いコミュニティーを形成しているという。

日本に「乞食を3日やったらやめられない」という言葉があるが、一たびファヴェーラに住みつくと、3日どころか一生をファヴェーラで過ごす人たちがほとんどであるという。ファヴェーラには外見からでは想像できない居心地の良さがあるのかも知れない。ブラジルのファヴェーラ住民は、全人口の25~30%であるといわれているが、彼らがその生活に満足しているとしたら、ファヴェーラは永久に無くならないであろう。黒人(または褐色)たちに、向上心が希薄な理由は、その辺りにあるように思われる。

話がかわるが、前出で、ポルトガル人のスケ兵衛心が、ブラジル人のベース造りに影響を与えたと記したが、現在のブラジル人たちの好色度はどうであろうか?数年前に、大手のコンドーム・メーカーがスポンサーになって行った世界規模の実態調査によると、最もセックス回数が多い国民はギリシャ人で年間165回、2位がブラジル人で145回/年となっている。これを見ると、ブラジル人たちは、先駆者たちがもたらした文化(?)をそのまま踏襲していることが窺える。ちなみに、最も少なかったのが日本人で、48回/年であった。

また、正規な実態調査ではないが、夜の事情に詳しいあるナイトクラブのママから聞いた話では、黒人女性を好むのは、主にポルトガル系、オランダ系、ドイツ系の男性たちで、アングロサクソン系とスペイン系の男性は敬遠するそうだ。日本人は、金髪好みが多いが、黒人女性に関しては、多分食わず嫌いなのだろう、とのことであった。(完)

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(102)映画「戦争にかける橋」の実話

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映画の中の「戦場にかける橋」

今年(2018)1月19日から一週間の日程で、私は娘のマリーナと、商用でタイ国のバンコックを訪れた。時間に余裕があったので、現地ツアーに参加することにした。ホテルのカウンターにあったツアー案内を見ると、何と「クワイ川訪問ツアー」というのがあるではないか。「もしや…」と思って係りの女性に訊いてみると、紛れもなく、その昔、ブラジルに移住する前に日本で観た映画「戦場にかける橋」の舞台になった、あのクワイ川を訪問するツアーだ。途端にあの感動的なシーンの数々と、軽快な「クワイ川マーチ」のメロディーが、鮮やかに脳裏に蘇った。私は一も二もなく、ツアー参加を申し込んだ。

 

 

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川幅300メートルの、とうとうと流れるクワイ川

ツアー当日は期待で胸が躍った。朝7時に出迎えのヴァンでホテルを出発し、午前中に水上マーケットを見学した後、勇躍クワイ川へと向かった。西に向かって走ること約2時間、ヴァンはクワイ川の畔にあるレストランに横付けされ、バルコニーのテーブルから川を見下ろしながらの昼食となった。眼下のクワイ川は、川幅が約300メートル位であろうか、水をとうとうとたたえてゆったりと流れている。200メートルほど下流に目をやると橋が一つ見える。ガイドさんによると「実物の橋」とのことであるが、イメージしていた木製の橋ではなく鉄橋のようだ。

 

 

昼食を終え、期待に胸をふくらませながら、徒歩で橋へと向かった。1943年に架けられた「戦場の橋」は、確かにそこに存在していた。しかし、橋のたもとに備え付けられた小さな台座の上に張り付けられた一枚の銅板を見た時、私の胸にあった期待は、急激に萎んでいった。

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橋のたもとにある台座の上に張りつけられた銅板

そこには、1942年から1943年にかけて、旧日本軍による、タイのノンブラードウィックからビルマのタムビザヤ間、約415kmの鉄道建設に駆り出された捕虜と労働者の数と、その死者の数が刻み込まれていたのである。アジア人労働者200.000/死者80.000、イギリス人捕虜30.000/死者6.540、オランダ人捕虜18.000/死者2.830、オーストラリア人捕虜13.000/死者2.710、北米人捕虜700/死者356、日本人・韓国人15.000/死者1.000と記されていた。インターネットで歴史の供述をひもとくと、鉄道建設中に、約1万6千人の連合軍捕虜が、飢餓、疾病と虐待のために死亡したとされており、現地で駆り出されたアジア人労働者の死亡数はその5倍にも及んだと記されている。

 

映画「戦場にかける橋」では、旧日本軍の捕虜となったイギリス軍兵士たちが、名誉と誇りのために日本軍に替わって橋を建設し、その開通式当日に、同橋を自らの手で爆破したことになっているが、その内容は英米合作映画の完全な脚色であり、事実とは大きくかけはなれていることが、実際にクワイ川に足を運んだ誰しもが、認識させられる。

 

この鉄道は、1942年の旧日本軍によるビルマ占領を契機として着工されたもので、ビルマ側、タイ側の双方から建設が進められた。全工程で最も難工事とされていたのが、クワイ川に架ける永久橋の建設とその前後のルートであった。設計・建設の主体となったのは、旧日本軍の優秀な橋梁建設専門部隊であったが、クワイ川は急流のため、工事は難航を極めたため、永久橋完成までの間に使う資材運搬用の橋梁として、永久橋の下流に木製の橋が架けられることになった。木橋は1942年12月に完成し、次いで永久橋の鉄橋も1943年5月には完成した。

映画「戦場にかける橋」のモデルになったのは、この木製の橋の方であると思われるが、歴史の供述には、イギリス軍捕虜たちによって橋が建設されたことや、同橋が開通式の日に爆破されたという事実は存在しない。

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実在の「戦争に架ける橋」中央部の角型橋梁が修復された部分

一方の永久橋は、1945年に連合軍の空爆により中央部が破壊されたが、鉄橋が不通の間、替わって木製橋が輸送の役目を果たしたとされている。永久橋の鉄橋は、戦後賠償の一環として、日本の横河橋梁によって修復されたが、修復部分は旧来の丸型橋梁ではなく、角型橋梁になっており、現在もその姿をクワイ川にとどめている。一方、木製の橋は1946年の大雨による増水で、姿を消している。

 

 

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鉄道犠牲者博物館

クワイ川を訪れた日本人たちが、さらにダメージを受けるのは、「鉄道犠牲者博物館」の存在と、その前方に広がる犠牲者たちの墓地である。撮影禁止になっている博物館の内部には、旧日本軍が鉄道建設にあたって、捕虜と労働者に対して行った過激な虐待行為が、パネル、写真、ビデオなどで、生々しく展示されており、見学者たちの驚愕と義憤を誘う。とりわけ「死者の数は、鉄道の枕木一本当り500名に及んだ」と記されたプレートの存在は、事実の凄惨さを如実に物語っている。さらに2階に上がると、窓からのぞめる芝生を敷きつめた広大な墓地と、おびただしい数の死者の墓標プレートが、見学者たちの心痛にさらに追い打ちをかける。

 

 

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広大な犠牲者の墓地に佇むマリーナ

私は、クワイ川ツアーに娘を伴って参加したことを、少なからず後悔している。というのは、わがJBC社は、「日本文化をブラジルに伝える」ことをコンセプトにした出版社で、娘のマリーナは、日本、日本人、日本文化が大好きで、私の後継者として誇りをもって仕事に取り組んでくれている。戦争を知らないブラジル生まれの彼女にとって、今回の体験は、知られざる日本人の一面を垣間見た訳で、かなりショックだったようだ。彼女は口では「戦争だから…」とコメントしていたものの、帰路のヴァンでは終始無言だった。

 

夕食の時に、私は「日本は大きな代償を、30万人の原爆犠牲者で支払ったのだよ」と言ってはみたものの、それがどこまで彼女の慰めになったものやら…。

 

帰路の機内で、改めてYOU TUBEから映画「戦場にかける橋」を観た。事実を知った後では、昔の感動がウソの様に空しく感じられ、あの軽快な「クワイ川マーチ」もただうつろに耳を素通りするだけだった。映画には、旧日本軍の捕虜虐待シーンなどは、描かれていなかったことが、せめてものなぐさめである。ちなみに、現地ガイドによると、映画はタイのクワイ川ではなく、スリランカにある河川で撮影された、とのことである。(完)

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(101) 日本企業がブラジルで成功する秘訣。

結論からいうと、成功の秘訣なるものは、多分存在しない。そんな秘訣があれば、450社の日本企業が進出しているブラジルで、もっと多くの成功例があってしかるべきであるが、実際にはそんな企業は、ほんの一握りである。

去る10月に、日本のB社から2名のスタッフが、ある調査のためにサンパウロを訪れた際、私はそのアシストを頼まれた。B 社は日本(本社・東京)で、中小企業の業績向上に役立てることを目的に、セミナー開催、講師の派遣、DVDの制作などを手掛けている会社である。それらの中小企業の中には、海外進出を目指している会社も多いとのことで、今回の訪問は、ブラジル進出を検討している企業に対して、そのアドバイスとなるような、DVDの制作が目的だったようだ。

訪問先は、商工会議所、ジェトロ、銀行などで、主に日本からの進出企業のブラジルにおける活動状況について、ヒヤリングをした。さらに、ブラジルで成功している日系の現地企業を3社訪問し、それぞれに成功の秘訣を質問形式で語って貰い、それを録画した。

3社の業種は、リゾート・ホテル、ブチックのチェーン店、高級日本料理レストランで、オーナーは全て日系二世であった。

PAradise-panoramicaリゾート・ホテルを経営しているH氏は、3歳の時に、広島県からブラジルに農業移住者としてやってきた家族の長男で、いわゆる準二世だ。彼は日頃から、「はたらけどはたらけど 猶わが生活楽にならざり じっと手を見る(啄木)」をそのまま地でいったような農業から、何とか脱出したいという、強い願望を持っていた。ある日、井戸を掘っていると、白砂の断層に行き当った。明らかに農地のものとは異なる地質に、H氏は直感的に、何か価値のある鉱物が含まれているような気がし、ひょっとしたら農業から脱出するチャンスになるのではないかと思った。そしてサンパウロの試験場に持ち込んだところ、カオリンという 陶磁器、アート紙のコーティング、化粧品、薬の賦形剤「ふけいざい」などの原料として無限に需要のある鉱物が含まれていることが判明した。あらためて調べたところ、白砂の断層は所有地一杯に広がる、巨大なものであることが解った。それからというものは、念願だった農業からの脱却を果たしてカオリンの採掘に力を注ぎ、それを元手に、湖畔に450室、ゴルフ場、サッカー場などを併設したリゾート・ホテルを建設して今日に至っている。H氏の話をまとめると「夢を持ち、その実現に強い願望を持つ」ことによって、訪れたチャンスを見逃さないようになる、ということであった。

nadia store高級ブチック・チェーン店(11店)のオーナーであるC女史は、数あるブティックとの競争に勝つために、従業員たちに「おもてなし精神」を持って顧客に応対することを徹底して教育することで、他店に差をつけ、事業を拡大した。さらに日系人経営の店として、初期の日本人移民が苦労の末に築いた「正直・誠実・勤勉」というブラジル社会における日系人に対する評価を、そのまま店のイメージと結びつけて、顧客にアピールした。C女史の話を総合すると、「日本人の特徴を生かした経営」に活路を見出した、ということであろう。

サンパウロの高級住宅地にある70席の日本料理店Kのオーナーシェフkinoshita-3であるM氏は、日本料理の修行のために2年間日本に滞在し、その後ニューヨークの日本料理店に2年間勤めたという経歴の持ち主だ。メニューのメインは、お任せのコース料理であるが、オーソドックスで伝統的な日本料理とは、材料も調理法もかなり異なっている、いわゆる創作日本料理である。Mシェフ曰く、伝統的な日本料理のスタイルにこだわらず、現地で調達する材料の特徴を生かし、ブラジル人の嗜好に合う調理法による日本料理の提供をモットーにしているという。「形にとらわれず、柔軟に現地のニーズにあった商品開発」をすることが、成功につながったとのことである。

サンパウロ日本商工会議所の事務局長によると、ブラジルに進出している企業数は450社であるが、成功と言える成果を挙げている企業は、ほんの一握りであるという。これは欧米の企業がブラジルで成功する確率に比べてかなり低いそうだ。では日本企業が立ち遅れている原因はどこにあるのだろうか。元より、絶対的な「成功の秘訣」なるものは存在しないとしても、成功のために取り入れるべき事柄は、いくつかあると思う。

進出企業にとって最大の難関は、言葉(ポルトガル語)と国の文化・習慣が異なることであるが、前出の3企業の成功例は、いづれも日系ブラジル人による経営なので、オーナーと従業員は言語の問題は無く、ブラジルの文化・習慣に馴染んでいるので、進出企業とはスタート時点で大きな差がある。それでも成功のキッカケになった経営者の考え方は、そのまま進出企業にも参考になる筈だ。

私見であるが、進出企業の成功に役立つであろう事柄をいくつか挙げてみる。

  1. 役員の退路を断つ:進出企業の駐在員の平均的な滞在期間は3年で、長くても5年であるが、こんな短期で一企業が成功する筈がない。それに3年間つつがなく勤めれば、帰国できるという立場の人に、中・長期的な成功のためのアイデアが生まれるとは思えない。駐在員を送りだす際に、成功するまで帰国させない無期限制にすれば、きっと真剣になって現地に溶け込み、言葉と文化・習慣を理解して、成功のためのアイデアが次々と生みだされるのではなかろうか。
  2. トップには人間的に魅力のある人を:ブラジルには終身雇用制は存在しない。優秀な社員を、恒久的に雇用することは極めて困難である。その理由は、従業員たち(特に優秀な人材)は、勤務している会社より、もっと魅力的で給料も高い企業に転職するチャンスを常に窺っているからである。彼らを引き留める方法があるとすれば、魅力のある会社にすることしかない。企業の魅力とは、社長の人間的魅力につながる。欧米の企業は、ブラジル進出に際しては、副社長クラスの人物をトップに派遣する。日本の企業はせいぜい課長・部長クラスで、ややもすると、窓際的な人物が派遣されてくることがある。その程度のトップに魅力的な企業にすることを期待する方が無理であろう。ブラジルは欧米文化の国で、日本とは言語・文化・習慣が違うハンデキャップを抱えながら、現地企業のみならず、あらゆる業種に世界中から進出してきている企業との競合を強いられる激戦地であることを忘れてはならない。
  3. 現地スタッフの登用:日本の進出企業の要職は、ほとんど日本人で占められている。例えば、言語・文化・習慣も解らない人に、営業部長が務まるであろうか?ブラジル人気質を理解していない人に人事部長が務まるであろうか? 答えは「ノー」である。3年間勉強したところで、理解度は知れている。それより、現地の人材をどしどし登用する方が、成果があがる。例え社長であっても例外ではない。現に、現地人を社長に登用して成功している日本企業が数社ある。一つの方法としては、ブラジル進出の際、事情が解らない国に単独で進出するより、現地に既存する企業とのジョイント・ベンチャーや買収の形でスタートすることが望ましい。そうすれば、現地企業の経験と人材をそのまま生かすことができるので、結果が出るのがずっと早くなるだろう。    (完)
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(100) ワールドカップの熱気で沸くブラジル:日本代表の戦い

Fifa 20146月12日、ブラジル開催の2014年サッカー・ワールドカップは、予定どうりに、サンパウロ市のコリンチャンス・スタジアムで行われたブラジルvs.クロアチア戦で、全64試合に及ぶ、熱戦の火ぶたを切った。

開幕ギリギリで完成したサンパウロ・スタヂアム

開幕ギリギリで完成したサンパウロ・スタヂアム

ブラジル政府が今回のW杯開催のために費やした経費は、約100億ドルといわれ、当初の見積もりの約10倍にまで膨れ上がった。主な内訳は、道路整備に33.6%、スタジアムの改装・建設に27.7%、飛行場の改装・建設に26.5%が費やされた。この莫大な出費に対して不満を爆発させた国民は、ブラジルに今必要なのは、教育と医療設備への投資であり、W杯への法外な出費はお門違いだと訴え、開催の数か月前から各地で大規模な抗議デモが行われ、一部ではそれがエスカレートして暴徒化するに至った。また、12都市で改修または新たに建設されたスタジアムの工事、道路と空港の整備は、予定より大幅に遅れ、それらの報道がマスコミを通じて海外に広く流されたので、W杯が果たして予定どうりに開催されるのかどうかと、FIFAと世界中のサッカーフアンたちをやきもきさせた。その一方で、地元のブラジル国民は、極めて楽天的で、予定どうりの開催に疑問を抱く人たちはごく稀であった。そして、開催日の数日前に、きっちり帳尻を合わせたように、スタジアム、アクセス道路と空港が、次々と完成し、予定どうりに開催日を迎えた。各地でゲームがスタートすると、それまでの不満や不安もどこえやら、国中がW杯ムード一色に包まれ、2億の国民は一丸となってブラジル代表応援ムードで盛り上がっている。

私は、特にサッカーフアンということでもないが、ブラジルでは一年を通じて質の高いプロサッカーのトーナメントが行われ、水曜日と日曜日のゴールデンアワーに、必ずサッカーの試合がテレビ放映されるので、この国の住民であれば、好むと好まざるに関わらず、サッカー観戦は生活パターンの一部になっているので、私を含めて、サッカーに関しては、かなり目が肥えているといえる。

今回の、ブラジル開催に当たり、高校の同窓で、大のサッカーファンであるK君とその友人が「日本代表の応援に、君の分のチケットも持って、ブラジルに行くので案内を頼む」とメールしてきたので、私も観戦に付き合うことになった。ところが、日本代表のグループリーグ戦の3試合は、レシーフェ、ナタールという、いづれもサンパウロから2500キロも離れた都市と、1500キロのクイアバー市に決まってしまったので、サッカー観戦のために、彼らとブラジル縦断の大旅行をすることになる。プログラムによると、レシーフェの一戦目から、二戦目のナタールの試合まで4日間のブランクがある。そこで、両市から約500キロ離れた大西洋の沖合にある、世界遺産の「夢の島」、フェルナンド・デ・ノローニャ島観光をスケジュールに組み入れて、W杯便乗値上げが始まる前の、2月頃からホテルとフライトの予約を入れ、万事整えて友人たちの来伯と、初めて生で見る日本代表の戦いぶりを楽しみにして待った。

その間、たまたま5月に商用で訪日することになったが、日本ではW杯における日本代表の活躍予想の報道が、連日マスコミを賑わし、前回のベスト16を上回るベスト8以上へ躍進の可能性ありという、皮算用で日本中が盛り上がっていた。特にヨーロッパのチームでプレーする主力選手たちの「優勝を目指す」という強気の発言があったりして、サッカーファンたちは、W杯における日本代表の活躍に夢を膨らませていた。

ブラジルに帰国すると、間近に迫ったW杯の予想記事が連日報道されていたが、地元ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、オランダなどの下馬評が高い反面で、日本代表の活躍を予測する記事は、皆無だった。

6月14日、待望の日本代表の第一戦、コートジボアール戦が、レシーフェのペルナンブーコ・スタジアムでキックオフとなった。この試合の観戦に日本から訪れた人たちの数は約7千人といわれ、スタンドの一部をサムライ・ブルーで彩った。私は、ブラジルに来て50年余になるが、これ程多くの日本人が揃って来伯し、一堂に集まった風景を見たことがない。日系社会にとっては、歴史的出来事であろう。

さて試合の方は、開始早々に本田選手の見事なシュートで先制点を挙げ、幸先の良いスタートを切った日本代表であったが、その後、先制点が災いしたのか、気持ちが守りに入ってしまい、積極性がなくなって動きにぎこちなさが目立つようになり、一方的に押される展開となって、案の定、疲れで足が止まった後半に、決定的な2点を奪われ、逆転負けを喫してしまった。

サムライ・パフォーマンスの日本人サポーター

サムライ・パフォーマンスの日本人サポーター

W杯は、ピッチで繰り広げられる白熱したゲームもさることながら、各国のサポーターたちの応援合戦も見もので、それぞれが特徴のあるパフォーマンスで、自国チームを応援する。大部分は、選手と同じユニフォームを着用し、さらに顔や身体を自国の国旗の色にペイントしたり、民族衣装に身を包んだりして、休むことなく選手たちに声援を送る。

日本人サポーターたちは、一様に選手と同じサムライ・ブルーと呼ばれる、青いユニフォームを身につけ、「ニッポン、ニッポン」とやや控えめの応援に終始していたが、チームが劣勢になると静まり返って見守ることが多かった。またパフォーマンスは、ちょんまげ姿の侍スタイル、忍者、浴衣の女性などがチラホラ見られたが、他国に比べてバラエティーと迫力に乏しい感じがした。

スタンドをサムライ・ブルーで彩った遠来の日本人サポーター

スタンドをサムライ・ブルーで彩った遠来の日本人サポーター

日本代表の選手たちは、たまたま、我々と同じホテルに宿泊していたが、一次リーグ戦突破のためには勝利が不可欠とされていた第一戦のゲームを落としたショックはかなり大きかったようで、翌日、朝食を済ませてバスに乗り込む選手たちの姿には、どことなく敗戦の後遺症が深く影を落としているように感じられた。

6月19日、ナタール市での第二戦目は、同じく第一戦目をコロンビアに敗北したギリシャが相手だ。一次リーグ戦を突破するためにはお互いに負けられないゲームである。

この試合で、日本代表は前回よりも積極的に動き、一人の退場者を出したギリシャに対し、ゲームを通じてパスを回し、ボールの支配率は65%に達したが、肝心のゴールへシュートする決定力が不足していたために点が取れず、結局0対0の引き分けに終わった。翌日、ブラジルのマスコミは、終始ゲームを支配しながら、勝利に結びつけられなかった日本代表の戦いぶりを、批判する記事が紙面を賑わした。コメントの総評は「決定力の欠如」という点で、ほとんど一致しており、中には、日本代表はパスの練習に重きを置くあまり、シュートの練習にはほとんど時間を割かないのではないか、という酷評さえあった。

6月24日、一次リーグ戦通過の土壇場にたたされた日本代表は、クイアバー市のパンタナル・スタジアムで、既に一位で決勝トーナメント進出を決めているコロンビアとの第三戦目に臨んだ。勝つしかリーグ戦通過の目は無い。

日本は、第二戦目よりさらに積極的にピッチを走り回り、時折シュートも出て、この試合にかける意気込みが感じられた。前半早々にペナルティー・キックを取られて一点を失ったが、気落ちすることなく攻め、終了間際にシュートを決めて、前半を同点で折り返して勝利に一縷の望みをつないだ。既に決勝トーナメント進出を決めている余裕のコロンビアは、レギュラー8人を温存していたが、後半に入ってレギュラーを投入した途端に見違えるようにチームに活力がみなぎり、立て続けに3点を奪って圧倒し、日本代表にW杯のピッチから立ち去る引導を渡した。この試合で、日本が放ったシュートは21本で、その内わずか一本のみ、ゴールネットを揺らしたに留まった。シュートは全てゴールポストの枠外か、キーパーの正面をつき、キーパーの手の届かない箇所に、正確にシュートを決めるコロンビアのストライカーたちとは対照的だった。

サッカーは、パスでボールを支配する「陣取り合戦」ではなく、「点を奪ってナンボ」のゲームである以上、シュートを放つ必要性もさることながら、ネットを揺らせる場所にキックする正確さも、今後の日本代表には欠かせない重要課題であることを、W杯の3試合を見るために、はるばる遠い日本から応援に駆けつけた7千余人のサポーターたち誰もが痛感したことであろう。

今回の観戦で、「W杯優勝を口にするには10年早い。それより黙々と練習を重ね、自らの技をもっともっと磨け。」というのが、日本代表選手たちに対する私の率直な苦言だ。

という訳で、日本代表は何らいいところなく、個々の選手やチームが、ブラジル人たちに与えた印象も極めて希薄なままに、ブラジルから去ることになってし まった。遠来の友人たちも、日本代表のふがいない戦いぶりに少なからずがっかりしていたが、美しいフェルナンド・デ・ノローニャ島の観光で、少しは気分が癒されたようだった。それにしても、7千人以上の日本人たちが、レシーフェとナタールに5日間も滞在していながら、目と鼻の先にある、世界遺産で、風光明媚なノローニャ島を訪れる人が皆無だったことは、日本の旅行社の職務怠慢と揶揄されても仕方がないだろう。

さて今回、日本人が現地のマスコミの話題となった出来事が二つあった。それらは残念ながら、選手やチームに関わるものではなかった。

ブラジル初戦で笛を吹いた西村主審

ブラジル初戦で笛を吹いた西村主審

一つ目は、ブラジルv.s.クロアチア戦に主審として笛を吹いた、西村雄一審判員だ。彼は、クロアチア選手のゴールエリア内でのクロスプレーに対し、迷わずペナルティーキックを宣告したのだ。それによってもたらされた得点は、劣勢のブラジルにとって起死回生となる逆転弾となったので、そのプレーが本当にPKに値するものであったかどうかが、話題となってマスコミを大いに賑わした。このペナルティーについては賛否両論であったが、どちらかといえばPKを疑問視するサッカー評論家たちが多く、西村氏はブラジル勝利の片棒を担いだというニュアンスの記事のお蔭で、一躍、ブラジル国民から英雄扱いされる存在となった。ジョーク好きでクリエイティブなブラジルらしく、翌日には早速、黄色と緑のブラジルのユニフォームを着こんだ西村選手(?)のサッカー・カードが発売され、飛ぶように売れたという。

青いごみ袋で応援し、試合終了後スタンドのごみを収集した。

青いごみ袋で応援し、試合終了後スタンドのごみを収集した。

もう一つの話題は、サポーターに関するものだ。レシーフェとナタールで行われた日本代表の試合終了後、日本人サポーターたちが占拠していた観覧席のゴミ類が、彼らによってきれいに取り除かれ、塵一つ残っていなかったということが、ブラジル・サッカー史上始まって以来の出来事だとして、マスコミが取り上げた。(最もこの行為については、賛否両論で、ブラジルではどこのスタジアムにも清掃専門の従業員がいるので、彼らの仕事を奪う、行き過ぎた所作だとの見方もある。)

さて、ブラジルW杯の進行状況は、現在8強が出揃ったところで、正に佳境に入ろうとしている。幸いにして、地元ブラジル代表は、苦しみながらもベスト8に名を連ね、ブラジル全土をスッポリと包み込んだW杯熱気をそのままキープしている。工事が遅れていた12か所のスタジアムは、ピッチの芝付も上々で、最高のコンディションにあると、各国代表選手たちは、賞賛の言葉を惜しまない。危惧された治安面でも、置き引きなど(持ち主の不注意による)の小さな事件はままあるものの、大きな問題が発生することなく、無難に進行している。

ブラジル代表の試合がある日は、全国的にほぼ休日扱いで、いざ試合が始まると、街から人の影が消え、いつもは渋滞する市街の道路や、ハイウエイを走る車も、ウソのようにまばらになる。2億人の熱烈な応援に後押しされた、ブラジル代表の今後の戦いぶりが注目されるところだ。

さて、今年の年末には大統領選挙がある。W杯に多大な国費を割いた、現役のジウマ大統領が再選されるかどうかは、ブラジルが優勝するか否かにかかっているというのが、もっぱらのウワサであるが、どうもその信憑性は極めて高そうだ。 (完)

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(99)南の地の果て:パタゴニア

地の果て、パタゴニア

地の果て、パタゴニア

パタゴニアは、南緯40度付近を、アンデス山脈から大西洋に向かって流れるコロラド河から南の地域の総称である。1520年に、同地に上陸したフェルナンド・マガリャンエス(マゼラン)によって名付けられたという。

過去に、私が経営していた旅行社では、アルゼンチン・ツアーが主力商品だった。「南米のパリ」ブエノスアイレスのタンゴ・ツアーと「南米のスイス」バリローチェのスキー・ツアーなどに人気が集中していたので、他のツアーまで手が回らなかったが、それでも「南の地の果て」パタゴニア・ツアーは、一度だけ企画して実施した。ツアーに添乗員として同行したのは、同僚のT君だったが、実は、そのツアーで劇的なハプニングがあった。地球の最南端にある町、フエゴ島のウシュアイアから、船でビーグル海峡を周遊するツアーで、周辺の雪を頂くアンデスの山々の、余りにも美しい景観に見とれていた一人の観光客が、足を滑らせてデッキから海に転落したのだ。季節は春だったが、南極が目と鼻の先にあるビーグル海峡の水温は零度に近い。必死でもがく観光客を見て、その場に居合わせたT君が間髪を入れずに海に飛び込み、見事にその客を救済したのだ。T君は、島根県浜田市出身で、幼いころから荒波の日本海を、プールのようにして育ったというが、その経験が思わぬ所で発揮されたという訳だ。その記憶がいつも頭にあったので、いつか一度「地の果て」を訪れて、ビーグル海峡を見てみたいと思っていた。

極寒のパタゴニア旅行は、やはり夏がいいだろうということで、連日うだるような暑さが続くブラジルから脱出して、家内と共に「地の果て」に向かった。

サンパウロ空港から3時間足らずのフライトでブエノスアイレスに到着する。そこから国内線に乗り換え、さらに3時間飛ぶと、下降体勢に入った機の窓から、なだらかな起伏をともなって、延々と広がる砂漠地帯が見える。さらに着陸体勢に入ったところで、真っ青な水を湛えた巨大な湖が目に飛び込んできた。パタゴニア最大の湖、アルゼンチン湖だ。機は間もなく、そのほとりにあるカラファッテ空港に着陸した。

機から出ると、さすがに空気がヒンヤリしている。カラファッテは、メインストリートが一本走っているだけの小さな街で、特に目立った産業は無く、年間を通じて訪れる観光客で支えられているようだ。

ぺリト・モレノの氷河。高さは60mに及ぶ

ぺリト・モレノの氷河。高さは60mに及ぶ

翌日はぺリト・モレノの氷河観光だ。ロス・グラシアレス国立公園内にある氷河は、南極、グリーンランドに次ぐ世界第三の規模で、世界遺産に登録されている。車で2時間程走るとアルゼンチン湖のほとりにある小さな港に着く。そこから船に乗り換えて氷河に大接近を試みるのだ。静かな湖面の前方に、青白い帯状の物体が横たわっているのが見える。近づくにしたがって、それはどんどん膨れ上がり、遂に高さ60m、幅5kmに及ぶ巨大な氷の壁となって、眼前に迫ってきた。正に圧巻である。

ガイドの説明によると、アンデス山脈の谷間になっているこの地域は、特異な気象現象によって年間を通じて製氷機の営みがなされており、さらに積雪が重なって湖に向かって大量の氷が押し出されてくるのだという。水上に出ている部分は60mだが、水面下には、更に120mの氷が沈んでいるとのことだ。

氷はいわば、雪解け水を再び凍らせたように純粋なので、透き通った水色をしている。呑兵衛の私は、この氷でウイスキーをオンザロックにして飲めば、さぞかし旨かろうと思った途端に、思わず喉がゴクリと鳴った。

午後は、氷河ロス・グラシアレスを山側から見下ろす場所に向かった。船で湖面から見上げたグラシアレスも見事だったが、上からの眺めも、表面がギザギザの氷河が、山間を遥か彼方まで延々と続いているのが見え、その規模の大きさがよく解って、すばらしい景観だ。圧巻は、時々ドーンッという轟音と共に、巨大な氷の塊が崩れ落ちる瞬間で、観光客たちはその度にウオーッと歓声をあげる。

ウプスラ氷河

ウプスラ氷河

翌日は、氷河の面積としてはペリト・モレノより大きいという、ウプサラ氷河に向かった。高速艇で、2時間ほどアルゼンチン湖をアンデス山脈に向かって航行すると、ウプサラ氷河に着く。近づくにしたがって、湖面にプカプカ浮かぶ青白い大小の氷の塊の数がどんどん増えてゆき、船はその間を縫うようにして、グラシアレスに接近していった。こちらは、ペリト・モレノのような巨大な壁状の氷ではなく、山間から膨大な量の氷が、ドバッと湖に溢れ出ている感じの氷河だ。午後は、4輪駆動の車で山間の細道を縫って登り、ウプサラ氷河を上から眺めるポイントに向かった。山頂の気温は低く、吹きつける冷たい風に襟元をすぼめながら、チリーとの国境を越えて、遥か彼方まで続くグラシアレスの風景を眺めた。ガイドの説明によると、地球の温暖化で氷河の面積は年々減少しているとのことだ。帰路で、車窓から大量の大木が横倒しになっているのが目に入った。ガイドに訊いてみると、この辺りの土地は年間を通じて吹く強風のために、土が吹き飛ばされるので木の根が浅く、木が一定の大きさに成長すると、風に倒されてしまうのだ、とのことだった。

地球最南端にある街、ウシュアイア

地球最南端にある街、ウシュアイア

翌朝、カラファッテ空港から、旅の終着点となる地球最南端の町、ウシュアイアに向かった。1時間半のフライトで、機は、ビーグル海峡にせり出したように横たわる滑走路に舞い降りた。ウシュアイア空港に到着だ。遂に「地の果て」までやってきた。

夏だというのに、厚着していても肌寒い。先ずはホテルに向かった。ウシュアイアの街はビーグル海峡から、アンデス山脈に向かってかなり急傾斜でせり上がっており、街全体が斜面に広がっている。ホテルは丁度、港が眼下に一望できる場所にあり、停泊しているフランス国籍の豪華客船が見える。丁度昼飯時だったので、ホテルで海鮮料理のレストランを教えてもらって出かけた。ウシュアイアの街は、ビーグル海峡に沿って横長に広がっており、海岸通りから二番目の大通りがメイン・ストリートのサン・マルチン通りで、レストランはその中ほどにあった。看板には「CANTINA FUEGUINA de Freddy(フレディーのフエゴ料理店)」とある。

生簀でうごめくタラバガニ

生簀でうごめくタラバガニ

店のショーウインドーがそのまま生簀になっていて、大きなカニがギッシリ詰まっていてうごめいている。タラバガニのようだ。カニに目が無い家内と私は、ウシュアイアでカニに出会うとは想定外だったので、嬉々としてそのレストランの扉を押した。中は、15~16卓しかない小さな店で、出されたメニューには、煮たり、焼いたり、蒸したりのカニ料理がズラリと並んでいる。中に、1キロ:350ペソ(35米ドル)と書いた料理があったのでウエイターに訊いてみると、生簀から気に入ったカニをピックアップして、丸ごと茹でる料理だという。タラバガニ一匹丸ごととは何とも豪勢だが、それに決めた。ピンピン生きたカニを秤にかけると2キロあったが、それでも小さ目だという。

2キロのタラバガニ (食前)

2キロのタラバガニ
(食前)

食後のタラバガニ

食後のタラバガニ

待つこと20分、真っ赤に茹で上がったタラバガニがトレイに乗せられて運ばれてきた。大型のハサミが手渡される。ハサミを縦に入れてチョキチョキと固い皮を切ると、プリプリした長い肉がスポッと抜ける。あとは、マヨネーズ・ソースをつけて食べるだけだ(ポン酢だともっとウマいかも...)。最初の足を口に入れると、甘みがあってサッパリしたカニの味が口いっぱいに広がった。私も家内も、黙々と足を外し、皮を切り、身を取り出しては口に運んだ。足を平らげて、次に甲羅をひっくり返すと、そこにも肩肉がビッシリと詰まっている。ところがフォークだとどうしても身が残ってしまう。箸があれば残さず取り出すことができるのに..などと、セコイことを考えながら、ひたすらカニに没頭した。残った残骸が1キロあるとしても、二人で1キロのカニ肉を胃に送り込んだことになる。カニだけで満腹とは、何とも贅沢な昼食だ。

吾々は、ウシュアイア滞在中の三日間、昼夜合計6回、その店に通った。お蔭で、メニューにあったカニ料理はほとんど食べ尽してしまった。レストランのスタッフともすっかり顔なじみになり、最後の日などシェフがわざわざテーブルまで、注文した料理を運んできて、挨拶してくれた。

帰る日になって、先週実施した年一回のチェックアップで、中性脂肪が高くなっており、医者から渡された禁止食材リストに、カニが含まれていたことを思い出したが、もう後の祭りだ。

波静かなビーグル海峡

波静かなビーグル海峡

二日目は、ビーグル海峡の周遊と、ペンギンの生息地訪問ツアーだ。ビーグル海峡は、大西洋と太平洋を結ぶ、全長240キロの狭い水道で、1831年から1836年にかけて、チャールス・ダ-ウインが行った世界一周航海で通った経路で、船名の「ビーグル号」にちなんで命名された。実は、私はマゼラン海峡とビーグル海峡を混同していた。1520年にフェルナンド・マガリャンエスが発見したマゼラン海峡は、ビーグル海峡よりさらに北にあって、大陸とフエゴ諸島を隔てる、全長500キロの海峡で、一方のビーグル海峡はフエゴ諸島の間を縫って大西洋から太平洋に繋がっている全く別の海峡であることを、今回の旅行で初めて知った。

地球最南端の灯台 があるホーン岬

地球最南端の灯台
があるホーン岬

ビーグル海峡を周遊する船は、200名は乗れるであろう純白のスマートな観光船で、船のデッキには高さ1,20mの手すりがぐるりと張り巡らされている。海峡を渡ってくる風は冷たく、デッキに出るときはフードを頭まで引き上げ、手袋をしないとすぐに凍えてしまう。

デッキから望む、アンデスの山々が雪を頂いた風景は正に絶景で、その昔、わが社のツアーで、景色に見とれて海に転落した人がいたことも、なんとなくうなずける。アルゼンチンとチリーの国境になっているビーグル海峡は、波は穏やかで船の揺れも少なく、途中で、地球最南端の灯台があるホーン岬や、アシカたちが寄り添って昼寝をしている小島などに一時停船しながら、2時間余の航海でペンギンの里に到着した。

ペンギンの里

ペンギンの里

そこには、まぁーペンギンが居るわ居るわ...渚から小高い丘にかけて、ゆるやかに広がる海浜に、体長70センチ程のペンギンたちが所狭しとひしめき合っている。中には、海に潜って魚狩りをしているペンギンたちもいるが、陸のペンギンたちの大部分はその場所にじっとしたまま佇んでいる。まるで、そこを動けば、別のペンギンに場所を取られてしまうのを危惧しているかのようだ。船客たちは、全員、寒いデッキに出て、夢中でシャッターを切る。カップルたちは、交代でペンギンを背景に、お互いにポーズをとってカメラに収まる。写真撮影が一段落したところで、船は舳先を巡らせて帰路についた。

黄昏のビーグル海峡

黄昏のビーグル海峡

ビーグル海峡の海流は、大西洋から太平洋に向かって流れているようで、帰路はノット数が加速して、1時間半しかかからなかった。ウシュアイアの港に着くと、昨日停泊していた大型豪華客船は姿を消し、その替わりに二隻の中型客船が、新たに入港していた。話によると、ウシュアイア港は、南極大陸周遊ツアーの玄関口になっていて、客船は、ここを起点にして南極に向かうそうだ。

翌日は、一日ゆっくりと「地の果てショッピング」を楽しんだ。メインのサン・マルチン大通りには、軒並みに土産物屋がある。圧倒的に種類も数も多い土産物は、ペンギンで、素材と造作に工夫を凝らした大小様々なペンギンたちが、店中所狭しと並んでいる。

ウシュアイアでの買い物。馬の置物とペンギン

ウシュアイアでの買い物。馬の置物とペンギン

ジュエリーも数軒あって、アルゼンチン特産の石で細工したペンギンや、様々な動物がショーウインドーを賑わしている。ロドクロジータ(別名インカの石)と呼ばれる、ピンクの石を使った彫物が多い。

そんなジュエリーの一つで、ショーウインドーの中に、馬の頭を彫った高さ40センチ程の置物があるのが目に留まった。取り出して見せて貰うと、原石は緑色をしたアルゼンチン・アクアマリーナとのことで、実にリアルに彫られている。持ち上げてみるとズシリと重い、7~8キロはあろうか。私は、足元を見られないために平静を装ったが、実は、これほど見事な馬の彫刻は今まで見たことがなかった。馬好きの私には、正に垂涎モノだ。値段を訊くと1万ペソ(1千米ドル)だという。そっと家内に目配せをする。「気に入ったのなら買ったら?」と、目で言っている。私は、余り興味が無いようなフリをして、賭けに出た。「7千ペソなら買ってもいい」。店員はオーナーにお伺いをたてるために奥に消えた。答えは「NO」だった。吾々は小さなペンギンを2,3個買っただけでその店を出ようとした時、店員が「チョットお待ちください!」と追いかけてきた。結局、7千ペソでOKということになった。余りに重いのでホテルに届けて貰うことにして店をでた。店から離れると、家内が私にパチッとウインクした。

「地の果て」の太陽は夜10時頃まで天空に留まり、朝の5時には再び空に戻ってくる。ウシュアイアではタラバカニをふんだんに食べ、ペンギンの里を訪れ、おまけに見事な馬の置物を手に入れて、満足感にひたりながら、我々は最後の短い夜を過ごし、翌日「地の果て」を後にした。

ウシュアイアを飛び立ったボーイング737機は、4時間余りでブエノスアイレス空港に着いた。時刻は午後6時半だ。気温は今までの寒さがウソのように、24℃と温かい。ひょっとしたら、タンゴショーに間に合うかも知れない。ホテルに向かうタクシーから旅行エージェントに連絡したら、8時半のディナー・ショーになんとか間に合うという。予約を入れて、ホテルにチェックインし、大急ぎでシャワーを浴びて着替え、タクシーでタンゴ・ハウスに向かった。

タンゴハウス。エル・ビエホ・アルマセン(古倉庫)

タンゴハウス。エル・ビエホ・アルマセン(古倉庫)

もう何度も来た、エル・ビエホ・アルマゼーン(古倉庫)だ。夕食は、タラ料理と白ワインを注文した。ゆっくりと食事を楽しんでから、筋向いにある小劇場に席を移した。今回の席は、中2階のロフトで、ステージを正面から見下ろせる絶好の場所だ。どうも駆け込み予約だったせいで、一般席が満杯のため、アップグレードされたようだ。吾々は時々シャンパンで喉を潤しながら、相変わらずすばらしいタンゴ・ショー(参照:http://bit.ly/1m2Gtwq)を楽しんだ。

多彩で見どころ一杯のパタゴニア・ツアーをつつがなく終え、帰路にブエノスアイレスのタンゴショーで締めくくって、翌朝、私たちは、アエロパルケ空港からサンパウロに向けて飛び立った。(完)

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